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豆腐怪談 45話:ひとりではいけない

夜19時以降は、この部屋で一人で残業してはいけない。
規則にはもちろんそんな項目はないが、長いこと職員に共通された不文律だった。


モニタの向こうは壁だ。一番端の島の席から後ろを振り向いて、反対側の壁にある時計を見る。白い光に照らされた時計の針は9時を過ぎていた。このだだっ広いオフィスは一部を除いて薄暗い。
この部屋で光を放つのは自分の島にだけ灯っている蛍光灯と自分のモニタ。そしてキーボードを叩く音と時計の秒針が回る無機質な音だけがある。

この部屋で夜に一人で残業してはいけない。
しかし今日はもう一人職員が外から戻る予定なので、一人で残業しているということにはならない、ということになっていた。

「ものはいいようだけどさ、もうこれ詭弁だよなあ」と思いつつ淡々と資料を入力する。これは誰かがうっかりやってしまった案件の残骸だった。しかしその誰かに任してしまったのは自分だ。ケツは自分で持たなければ。
普段は背中の向こうに数十人がいるのに、誰もいないというのは背中がかえってチリチリするような寂しいような変な感覚になる。
だいぶタイピングするスピードが落ちてきた。

「休憩するかぁ」
ゔあーと奇声を上げながら、固まった背中と腕を伸ばした。
これも一人だけいる時の特権だ。
部屋の隅にあるウォーターサーバーの横に立ち、水を喉に流し込みつつ部屋を見る。
自分だけかと思ったら外へ出た同僚のモニタも光を放っていた。パソコンはオンのままらしい。
「アイツいつ戻るんかね…」
さすがに電気代が勿体ないとは思うが、彼から外に出ている間に何か処理してるとも聞いていたので、手を触れるのはやめておいた。彼のパソコンは古いから時間がかかるらしい。

休憩ついでにトイレに行こうと廊下に出ると、真上から光が降ってきた。
ここの廊下はセンサー式だ。蛍光灯の下に立てば足元を照らしてくれる。
「この時間だとさすがに明るくて眩しいねえ」
いちいち一人で暗い廊下の壁を手探りでスイッチを探すのはさすがに面倒で、そしてその分時間の無駄だ。手間が省けるのはとも楽でいい。


再開してからさらに30分が経った。こちらの仕事はもう終わりに近づいた頃、廊下から足音が聞こえてきた。
廊下が見える位置に立つと、同僚が姿が廊下の突き当りから、明るい廊下の中を早足で歩いていた。

「ただいま。ずっと一人にして本当にすまない。君がこの時間まで残業してるなんて知らなかった」
同僚は急いで戻ってきたらしい。少し服が乱れている。
「一人でやってたから、かえって捗ったよ。だから気にしなくていいって」
「だってここで夜に長時間で一人だぞ?何かあったら申し訳ない」
「大げさだなあ。そこまで考えなくとも。トラブルなんて起きなかったし、電話もないから一人で大丈夫だったって。それに残業は自分からやるって言ったしな」
同僚の声色は低く、真剣だった。
「いや、夜に一人にさせること自体がいけないんだ。…聞いていないのか」
「は?なにそれ?」
何だその含みは?

「というか、本当に何も起きていないのか?」
「何もって、なんのことだ?」
「本当にここで一人でいてはいけない理由を知らないんだな」
同僚はこちらをじっと見ながら、自分のパソコンをスリープから復帰させた。それに何故か違和感を抱いた。

「この部屋は夜に一人でいると、必ず幽霊が出るんだ」

「ハア?ずっとここに一人でいたが、幽霊なんて見なかったぞ」
何かと思えば幽霊か。そんなナンセンスなものは見ていない。
「見えるタイプの幽霊ではなくて、この部屋をうろつくんだ。…オレも聞いたことがある。誰もいないのに、オレの周りをずっと歩いている音がずっと離れなくて怖かった…」

同僚は耳を抑えるしぐさをした。その強ばった表情には冗談を言っている顔には見えない迫真さがあった。
「いやいや、そんな音もしなかった。音なんて時計の秒針ぐらいなもんだ…」
そう言いながら反対側の壁にある時計を見あげた。真っ暗で秒針は見えなかった。
「ン、暗い?」
あの辺りは照明をあえてオフしていた。

しかし九時ごろ見た時は時計の針の位置が分かるぐらい明るかった。
オンにした覚えなんて、ない。
それにだ。
同僚のモニタに目を移す。違和感の正体が分かってしまった。
同僚が戻る前の休憩時に見た時は、パソコンはオンになっていた。同僚のパソコンには一切手を触れていなかったのに。

「ちょっと待ってくれ…待てよまて……」
思わずさっと湧いてしまった幽霊疑惑を消し去るように呻いた。
「オイオイ、やっぱり何かあったのかよ…!」
それを察したのか同僚が不安な声を上げる。
「いや変なことはあったかもしれないけどな、些細なことだ。」
大丈夫だ心配するなと言おうと同僚の顔を再び見た途端、あることに気付いてしまった。
「あ、そういや君たしかさっき……」

戻ってきたとき、コイツは明るい廊下の中を歩いていた。
廊下の照明は真下に立つとオンになるセンサー照明だ。

では同僚とこの部屋までの廊下全体が明るかったのは、どういうことなのか。
この部屋の手前まで廊下は明るかった。それは誰かがこの部屋の前まで歩いてきたということになる。
廊下はタイル貼りで、静かだったから誰かが歩けば足音が響く。しかし、他人の足音は同僚が帰ってくるまで全く聞いていない。

「まてまてまて、一体だれが歩いて廊下の照明をオンにしたんだ?」
そしてこの部屋の前に歩いて立っていたのは、誰だ?

「や、やっぱり何かいたんじゃないかあ~」
同僚が情けない声を上げる。なだめるように声をかけた。
「ひょっとしたらいたかもしれないが、今は二人だ。二人なら出ないんだろ?」
「そう聞いている」
「とっとと仕事終わらせよう」
「そうだな」
同僚とお互い頷いた。私もへばりつき始めた不安から逃れるためにとっとと残業を終わらせたかった。
そのあとはお互い高速で残業を終わらせた。

「パソコンの電源オフよし、忘れ物なし!よし、帰る!」
自分はカバンを肩にかけていたが、同僚は帰り支度に手間取っていたようだ。

この部屋の鍵は同僚が持っている。一足先に帰ってもよさそうだ。自分が今にも帰ると同僚は察したらしい
「まった、この部屋に俺を一人にしないでくれ」
「いや一人って言っても数分差でしょ。帰る」
同僚は手を突き出し、大きな声で待ったをかけた。

「置いていかないでくれ!」
「置いていかないでくれ!」

声が二方向から聞こえた。
声の一つは同僚。もう一つは、自分の真後ろから聞こえた。思わず振り返ったが誰もいない。

不意に耳元で低い声で囁かれた。
「彼を置いていくのはかわいそうだからさァ、一緒に行きな。ついでに僕も連れてってくれよォ…」

背中にゾワゾワしたものが走った。
同僚と無言で目を合わせる。同僚にも聞こえたのか、顔は硬直し青ざめていた。
「早くしてくれ!とっととこの部屋から出るぞ!」
「すまない!」
同僚と一緒にこの部屋を後にした。
扉を閉め、同僚が鍵をかけるとき、扉の向こうの擦りガラス越しに声が聞こえたような気がしたが、聞こえなかったことにした。

「つれないなァァ……」

【終】


※豆腐怪談シリーズはTwitter上でアップしたものを訂正&一部加筆修正などをしたものです。

ヘッダー引用先
フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)

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