張良子房、韓王を捕獲する

時は紀元前209年、秦は二世皇帝元年。
ここは秦の潁川郡。かつてこの地域を支配した韓という国があった。


粗末な家で男が二人向かい合って座っている。窓から差し込む陽光が埃と共に二人の顔を照らす。一人は身なりが整った美男子、対する男は痩せて衣は継ぎ接ぎだらけでみすぼらしい。
継ぎ接ぎ衣の男は自嘲を含んだ笑みを美男子に向けた。
「先の宰相のご子息の張子房殿と申されましたか。このただの庶人、韓成に一体何の御用でしょう?」

韓成は韓の公子、つまり王族の一人だった。国が滅んだ今は庶人となり秦の追跡から逃げる日々を送っている。
張良は数歩後に下がり、韓成にかつての号で呼び恭しく拝礼した。

「横陽君様、貴方様を韓の王として擁立すべく参りました」

「エッ?王?今何と?」
予想外の言葉に思わず素っ頓狂な声が出た。
「もう公子は貴方様しかいないのです。韓復興のため王におなりくださいませ」
韓成は思わず待てと手を張良に向ける。
「即位するのはやぶさかではないが…少し考える時間をくれませんか」
「戸惑いなさるのも致し方ないことです」

その時、韓成の第六感が頭の中で閃いた。
話が上手すぎる。やはりこれは秦の罠か。

韓成は急に立ち上がった!後ろへ三歩ほど跳ね窓枠に足をかける。その俊敏さに張良が声を上げる間もなかった。
「私を韓王に擁立する?ハ!その手には乗るまいよ!そう言って私を秦に突き出す気だね!そもそも君は宰相の子息と名乗るが私は君の顔を見たことがない。危うく騙されるところだったよ!」
「お待ち下さい、横陽君様は何か誤解をしていらっしゃる」
聞く耳もたず韓成はヤッと声を上げ窓から飛び降りた。流れるような受け身をとり着地する。
「私は最期まで逃げきってみせる!」
ええ…と絶句し窓から見る張良を尻目に、韓成はあっという間に視界から走り消え去った。


あの鬼謀と呼ばれた張良子房を一週間にわたり翻弄した韓の公子成の逃走劇が、いま幕を上げた。


【続く】

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