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出会いの極意

「そんなものはない」が今のところ達した結論です。

まずこんな文章を公開している言い訳をすると・・・

これまでの投稿で、中年女性が浮かれてんじゃねぇよ、と思われていると思う。私だって自分のことじゃなかったら絶対に読まない。それでも書く。もはや暴力である。
もしこれが友達だったらそっと離れる。そして落ち着いた頃に連絡する。
面倒だからだ。うまくいっててもケンカしてもずっとその話をされる。
私だって何回もそういう場面に居合わせてきた。そして今度は自分がそういうメンドウな女性になったということである。
私は法律事務所で働いていた。そこには離婚したい妻たちがたくさん来る。
夫の悪口を言い親権をとりたいという。「結婚式がピークだったのか??」と何度も思った。
子どもが生まれたら関係は変わる。子どもがいなくても、何年も経ったら関係は変容するのだろう。
こんなテンションが続くわけがない。こんな文章も残すべきじゃないのかもしれない。
でも書く。残す。そして公開する。恥の多い生き方である。

ただ、私は長年「人と暮らせない(≒一緒に暮らしたいと思うような人に出会わない)」ことに対して、ものすごい劣等感を持っていたので、1つはそれについて書いておきたいということである。
他人と暮らせない自分はおかしいのではないか、このまま一人で暮らすとおかしくなっていってしまうのではないか、という、うっすらした不安と恐怖が常にあった。そこから(一時的にかもしれないが)解放されようとしていることは、シンプルに運が良かったと思っている。

▼タイトルのことについて。

それは全くポジティブな答えではない。

出会いは偶然。何の因果もない。奇跡。

いや「奇跡」って何だ。

説明します。

それは、私(あなた)がどれだけ「モテ」「愛され」のために努力しようがしまいが、
相手のために尽くそうが尽くさなかろうが、
最低限の美容をしようがしまいが、
自分を向上させようがさせまいが、
太ろうが痩せようが、
出会うか出会わないかは、それとは何の関係もない。

私の人格にも美醜にも、学歴にも家族関係にも、何の関係もない。
完全な偶然。
「奇跡」といったのは「だからずっと一緒にいよう♡」ということではなく、「人の手では起こせない、関与できない」ということです。

努力して「出会う」人もいる。でも特にそういう努力をしなくても「出会う」人がいる。
努力しまくっても「出会わない」人もいる。そういう努力はせず、「出会わない」人もいる。

▼若い頃から不満だった。

20歳のとき、演劇のワークで【一番言いたいことを1分間で感情MAXで言い切る】というのをやった。
その時、私は「なぜこのワタクシに彼氏ができないのか」を怒り100%で言い切った。それが演出に大いに受け、そのまま本番の舞台でもやることになった(コメディアンソロジーだったので)。全観客ドン引きしていたが、私としては本心しかないので、別に引かれても構わなかった。

なんでこんな話になったんだ・・・。ええと。

そう、私は確かに
ものすごい美人ではないし
(私はヘテロなので)男性のために尽くしたりはしないし、
男性のために自分を変えたりしないし、
まあそうだけど、それでも、
そんなにめちゃめちゃのブスではないと思うし
それなりの大学に通うほどには勉強も頑張ったし、
友達だって数人はいるから本当に性格が悪いわけではないと思うし、

これ以上何を頑張ればいいの?! 
何が足りないんだよ! 
何が不満なんだ?! 
と20歳の私は怒り狂っていた。

今となってはどうでもいいのだが、
本当に当時は混乱していて、
「やっぱり私が悪いのか? 
 男が好きな顔立ちじゃないから? 
 男に媚びないとダメなの?!
 男が何かうんちくを語り出したら『へえ~そうなんだ♡』と
 聞いてあげなきゃいけないの?! 私が全部知ってる話でも?!」

と思っていたのだ(後半何があったんだ)。

そんなことない。全くない。そんなこと何の関係もない。
会う時は会う。会わない時は会わない。それだけだ。

自分磨きをしたければすればよいし、
可愛いお洋服を研究してもよいし、
やせたきゃやせればいいし「きれい」になるのは悪いことではない。

でもきれいになったからといって出会えるわけではない。

勉強をしたければすればいいし、
いい会社に入りたければ入ればいいし、
がんばりたければがんばってもいい。

でも出会えるわけではない。
いわゆる条件的にすごくいい男性が周囲にいる確率は上がるのかもしれないが、それと私が(あなたが)交際できるかは全く別の話である。

▼何かするにしても「モテ」じゃなくて、「自分がしたいかどうか」でいいよ。

「モテを意識したいわけではないけど、一度カワイイ服を着てみたいから買ってみる」ならそれは「自分で買いたいから買っている」ということである。
「モテを意識したいわけではないけど、一冊くらいはモテ本を買ってみるのもいいかもしれない」ならそれは「自分で決めた」ということである。

でも別に、可愛い服を着て可愛くなって男性に気に入られるような言動をしたからって、出会うか出会わないかは何の関係もない。

と書くと当たり前のことなのだが、これ、20歳の私に言っても響かなかっただろうな・・・。

こういうことを、世のモテ本の1ページ目に(愛される私になるために~みたいなネット記事のトップに)書いておいてほしい。

これまで涙ぐましい努力(?)をした時期もある。
でも、やりたくなければやらなくていい。
やりたければやればいい。
ちょっとやってみたい、なら、ちょっとやってみればいい。
だって(でも)それ何の関係もないから。

▼私が「幸せ」になれなかった理由

今考えれば、私が恋愛で全く幸せにならなかったのは、「どうしても男性を許せなかった」ということが原因だったと思う。

「自分のことを許してほしい」と思っていた。
こういう風にしか生きられない私を。
ずけずけと物を言うし、あまり人には優しくないし、サラダは取り分けない私を(笑) 

そう思ってるくせに、私のほうは男性を許すことができなかった。
どうしてかはわからないけど、許せなかった。存在が。

だから交際していても憎かった。一緒にいて安心しながらも腹を立てていた。ダメなところ、できていないところ、嫌なところが目についた。
好きじゃなかった。
そうやって私は「ハン(反/恨)男性」で20~30代を終えてしまった。

▼演劇

でも30歳頃から、地元で社会人演劇をやったことで、いろんな男性に会った。
(他の界隈と同様)小劇場界にも、どうしようもないような人もいたが、素晴らしい人もいた。
そして「どうしようもない」ことと「素晴らしい魅力」が同居している人がたくさんいた。

そんなことも私はわかっていなかった。

もちろん演劇をやったからといって、恋愛における幸福は得なかったが(そうは問屋がおろさない!!!!)、舞台の喜びを得た。
自分が書いたものを、かたちにする喜びを味わった。

それは恋愛とは全然別の幸せだった。
日常生活と会社の中では、絶対に癒せない渇きが、辛かった。
でも演劇の人たちと、稽古して、待ち時間にたくさん話をして、酒を飲んで、私は生き延びることができた。

そうやって、私は少しずつ人間に、男性という存在に「慣れた」んだと思う。

でもそれとは全然別に、恋愛とか結婚とかの選択肢を完全に消去できたわけではなかった。
それは別のnoteにもさんざん書いたけど。

やっぱり結婚したほうがいいのかな。
誰かと暮らしたほうがいいんだろうな。

「出会い」がある場所に行ったほうがいいよー!と友人から何度も言われた。
でも自分を曲げてまでしたくなかった。というか、できなかった。

結論からいえば、無理して出会いを求めすぎなくて良かったと思っている。
無理しようがしまいが、関係ないのだから。。。

▼1ミリも期待していなかった。

そして全く期待していなかった場で出会うこととなった。
(こんな話誰も興味ないと思いますが、正確を期すため・自分のために言っておくと、半年ほどコメントとか旧Twitterなどで、文章だけでやりとりしていたのだが、2023の友の会総会への出展について直接やりとりしている時に、オフで会おうということになったのである(ちなみに、私も向こうもシラシーと直接対面で会うのは初めてだった)。

私は会うが会うまで
「生理的に無理だったらどうしよう」
「サイコパスだったらどうしよう」(やり取りしている時の文章がややストーカーっぽかった・・・)

と思っていた。

後で聞いたら、向こうは、ありとあらゆる私の投稿した文章を読み漁り、うっかり私が出演したYouTube番組で「声」を確認し、さらに気を付けていたつもりだったのだがうっかり投稿していた画像で「顔」も確認していたという。
「だから会う前からだいたい分かってた」という。

サイコパスやないか。

※「インターネットネイティブのたしなみ」らしい。

▼世の中こうなってたのか。

そういえば私は、ずっと既婚者の「なれそめ」の話も不満だった。(私の人生、不満だらけである)

なんでみんなそんな「ぼんやり」した話なのだろう。
だいたい彼らは「偶然、席が隣で」「同じ職場で」「友達の友達で」「たまたま会った」などと言い「で、付き合う/結婚することになったんだよね」という。

「で」じゃないよ!!! 
その「付き合う/結婚することになった」過程が知りたいんだよ!!!

でもなぜ彼らが言わなかったのか、なんとなくわかった。
その過程は全然面白くないのだ。話しても誰にも伝わらない話なのだ。

だいたい好意というのは、ある程度、時間をかけて醸成されていくものなので、「この瞬間に好きだと思った」「交際を決意した」というのは言語化しにくい。
一目惚れだったらそういう「この人だ!」という瞬間があるのかもしれないが、ますます他人には伝わりづらい。

そして大事なのは、「その過程を知ったからといって、あなたのこれからの出会いの参考には全くならない」ということなのだ。

だからすべて偶然。
交際するしない、結婚するしない、子ども産む産まない。
それは私(あなた)の人間的価値とは何の関係もない。
私(あなた)のこれまでの努力も怠惰も、善行も悪行も、何の関係もない。

ただし、誰かと暮らしているか暮らしていないかで、その後の人生や人格が変わっていく(影響はある)とは思う。

▼というミもフタもない話です。

世の中の人たちはみんなこれがわかった上で、何事もない顔で生活しているのだろうか。
私はわかってなかったです。

いろんなことがどうでもよくなり(年取ると怒りを持続させるエネルギーもなくなる)、「男もダメだが私もダメなとこあるよな」と思っていた時に、出会った。

でも、出会わなかった世界も全然あった。

ずっと、月4.5万のワンルームに住んで、あまり自分のケアをしないで、常に何となく不満で、浴びるほどの自由を満喫しながら、そこそこぼちぼちに生きて、年を取って・・・という世界だ。

私は正直ほっとしている。しかし、そこに戻る可能性も全然あることは忘れてはならない。

もちろん、この投稿翌日に関係解消しているかもしれないし、人の寿命はわからないし、何があるのかわかりません。

そうであったとしても、後悔しないで生きる。この文章も消さない(笑) 

・・・という自分にとって重要な気付きを書き留めていたら、メッセージが来た。

「ららぽーと」でこまごましたものを爆買したよ。

うおーい!!! 引越し予算!!!!!!



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