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意味が分からないことは面白くないことなのか?

高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」を初めて読んだのは、確か、高校の終わりの頃だったと思うけど、僕にとってあの小説はかなり衝撃的でした。よく分からないけどめちゃくちゃ感動したんですね。

その感動を誰かに伝えたくて、文学好きの人と知り合ったら、必ず「さようなら、ギャングたち」を読んだことがあるか尋ね、なければ読むことをおススメして、お節介ながら単行本を貸したりしてきました。

でも、読んだ人の感想の中で、多かったのが「意味が分からない」というものだったんです。

「意味分からないけど、面白くなかった?」と僕が訊ねると、
「え・・・?」と、多くの人が少し困った表情を浮かべる。

僕は、その時、いつも少し不思議な気持ちになりました。「意味が分かる」「意味が分からない」と、「面白い」か「面白くない」かは、どう関係してるのかというのが、よく分からなかったからです。

ほとんどの人は「意味が分からない」ことは、そのまま「面白くない」と感じてるように思えました。少なくとも、「面白い」とは思えない、というような感想に行き着いてたように思います。

でも、「意味が分からない」と面白くないんだろうか。そもそも、「意味が分かる」ということはどういうことなんだろう。小説の、文学の意味がわかる、というのは、何を意味しているんだろうか。ものすごく不思議に思えたんですね。

ここで言う「意味が分かる」というのは、ほとんどの場合、「物語」が分かる、ということなんじゃないかと。「物語」が分かるというのは、極端に言ってしまえば、「どんな小説?」と聞かれて、その粗筋が説明できる、ということなんじゃないでしょうか。

でも、そうなるとそもそも「物語」がない小説は面白くない、ということになってしまいます。小説や文学に関わらず、たとえば、抽象絵画とか、そもそも何を描いてるか分からないみたいなものは、「面白くない」ものになってしまうのでしょうか。

いや、意味なんて分からなくても、面白いもの、面白いと感じるものはいくらでもあると思うのです。僕らはあまりにも「意味が分かる」ということを重要視しすぎてるのではないか? いや、逆に「意味が分からない」ことを恐れすぎてるんじゃないでしょうか。

こういう思考は幼い頃の学習体験に少なからず影響を受けているように思います。

たとえば、学校教育での国語や現国では読解力を問う問題があります。文章の意味や作者が言おうとしてること、このセンテンスの本当の主張など、とにかく「正しい意味」が存在し、それを導き出せない、理解できないと不正解になるわけです。正しい意味を理解できない場合、理解できない方が悪いということになります。

でも、正しい意味なんてものがそもそもあるんですかね? それって試験の出題者が無理やり作ってるこじ付けにすぎないんじゃないでしょうか。

ちなみに僕が小学校の低学年の時に、一番好きだったのが、この本でした。

この小説は不条理の塊です。今読み返しても、この小説に何か正しさを求めるのは、お門違いな気がします。かなり破天荒というか、滅茶苦茶な話なわけですが、でも、やっぱり今読んでも面白いわけです。

まだ文学のことも何も分からない時でも、この不条理さや、わけのわからなかさが、たまらなく面白くて何度も何度も繰り返し読んでました。

意味なんてなくても、意味なんて分からなくても、面白いものは面白いんです。子供の頃はそういう感覚が普通にある。

でも、少しづつ勉強していく中で、何か「意味が分からない」ことが、ネガティブなことにされ、意味が分からないと、理解できてないと思わせられてしまって、多分、面白いなと思っても、その感情をうまく説明できなくされてしまったんじゃないかなと。

意味が分からなくても自分が面白いと思ったら、正々堂々、面白いと言っちゃえばいいと思うんです。自分でもよく分からないけど、でも面白いんだと。

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