煙突を巡る木村石鹸四代の物語

木村石鹸本社には高い煙突がありました。この写真に写ってますね。

25m 鉄筋コンクリート製の煙突

実は、この煙突、もうありません。3週間ほど前から解体作業が始まり、何事もなく順調に進んで、煙突があった場所は、今は更地になっています。

煙突があった場所。今は更地

この煙突は、この八尾本社が出来た時に建てられたもので、当時としてはかなり高い煙突でこの辺一帯でもかなり目立った存在でした。

僕は木村石鹸の四代目になります。四代目が解体したこの煙突は、初代、二代目、三代目と続く先代達の歴史や想いの結晶みたいなものでした。

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初代、熊治郎は1924年に今の木村石鹸の前身「木村石鹸製造所」を始めます。しかし、1944年、太平洋戦争の影響で原料不足でやむなく廃業となります。元々の木村石鹸製造所では、石鹸を製造するのに木炭で釜を焚いていて、工場には高い煙突が立っていたそうです。しかし、廃業となり工場も畳むことに。自慢の煙突も解体されたそうです。

(熊治郎の石鹸屋起業ストーリー)

熊治郎の息子、金太郎(かねたろう/二代目)は、木村石鹸製造所で父を手伝っていましたが、戦争で父熊治郎も亡くなり、木村石鹸も廃業となったので、戦後しばらくはボイラー技士として別の会社で働いていました。腕がよく社長からも信頼されていたそうですが、そのボイラー会社の社長の息子が会社に戻ってくるということで事実上の解雇を言い渡されます。

仕事がなくなって、しばらく、金太郎(二代目)はじっと火鉢の前に座って考えに耽っていたそうです。その様子を当時中学生の息子、幸夫(三代目)はよく覚えていて、この時の話は僕も何度もその話を聞かされました。

そうして2ヵ月ほど経ったある日、金太郎は、「よっしゃ!昔の石鹸屋やったる!」と宣言したそうです。幸夫は、それが嬉しくて嬉しくて仕方なかったと言います。

(こちらのシリーズの記事も参考に)

とは言っても、ほぼ無一文からのスタート。石鹸を焚く釜もなく、レンガを積んで釜場を作りドラム缶を釜代わりにするような即席手製の工場から始めたそうです。当然煙突なんてありません。これが1954年。「木村石鹸工業」としての再スタートでした。

余談ですが、実は、そのタイミングで金太郎(二代目)の妻、幸夫(三代目)の母が亡くなります。しかし、葬式を上げるお金がない。幸夫は親戚にお金を借りに行かざるを得なかったそうです。そこで、「お前の家は、母親の葬式上げる金もないのに石鹸屋やるんか」と嫌味を言われます。幸夫はその時の悔しさを胸にかならず石鹸屋で儲けてやると誓ったそうです。

それでもなんとか父金太郎、息子幸夫は、二人三脚で頑張って、少しづつ木村石鹸を大きくしていきます。

そして、1971年、現本社がある八尾に工場を移転、新工場を建てることになったのです。同時に法人に改組、正式に木村石鹸工業株式会社が設立。代表取締役に、三代目木村幸夫が就任します。

新工場を建てる際に、金太郎が拘ったのは、初代熊治郎が興した木村石鹸製作所の工場にあった煙突でした。あの煙突より高い煙突を建てるんだ。それが戦争で廃業を余儀なくされ、煙突を解体された熊治郎の無念を晴らすことと、金太郎流の熊治郎への感謝の気持ちの体現だったのです。当時の木村石鹸の規模にはどう考えても不釣り合いな巨大な煙突は、そんな金太郎の想いから建てられたものでした。

その後、その巨大な煙突は木村石鹸の象徴として、また、こだわりの釜焚き石鹸の製造の要として活躍します。しかし、工場の周りにも民家や別の工場などが建ち並ぶようになり、煙突から出る煤や灰で迷惑をかける場面が出てきます。時代の流れも相まって、釜焚きもボイラーの蒸気熱を使う方式に替えていったので、この十数年は煙突としての本来の機能は殆ど使われずという状況になっていました。

釜焚き石鹸

煙突が出来て約50年。流石に煙突がそのものが、折れたり倒れたりはしないとは思いますが、コンクリートの外壁には亀裂が走り、何かのきっかけで剥がれ落ちてくる危険性が懸念されるようになってきました。

何年か前から、僕らは煙突を維持できる方法はないか、何かうまく改修できないか、色んな業者にも話を聞き検討を重ねてきました。しかし、最終的には今後のことも考えると、解体するのが一番良いという結論に至りました。

煙突工事の解体作業が始まる日に、僕と親父(幸夫)とで簡単なお清めの儀式をしたのですが、その時に親父が煙突に抱きついて、ありがとうと言ってたのがとても印象的でした。親父にとってもこの煙突は、金太郎の形見みたいなものだし、苦楽を共にした相棒だったのだと思います。

煙突の解体工事は何の問題もなく、無事スムーズに終わりました。解体中に分かったのですが、ある個所ではコンクリート片が引っかかってるだけになってるところもあり、ちょっとした衝撃で落下してもおかしくない状態だったそうです。このタイミングで解体できたのは良かったなとは思ってます。

初代から三代目までの想いが受け継がれた煙突を四代目の自分が解体するというのは辛いところがあります。できれば、次の世代にも引き継いでいきたかったです。でも、何か事故が起きてからでは遅いわけです。古きものを大事に継続させていくことも大事ですが、一方で、それを断ち切って新しいことに取り組んでいくことも未来を創りだしていくには必要なことなんだと、自分に言い聞かせ、解体を決断しました。

今年は、煙突がなくなってしまったので、サンタも寂しかろうということで、社員達が本社棟をライトアップしてクリスマスツリーを作ってくれました。このライトアップがまたこれからの木村石鹸のシンボル、クリスマスの名物になっていくと良いなと思ってます。

煙突は無くなったけど今年は本社棟をライトアップしたよ

煙突はなくなってしまったけど、初代、二代目、三代目と先人たちの苦労や御恩への感謝は忘れることなく、新たな未来を切り開いていきたいと思ってます。

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熊治郎がどのようにして石鹸会社を始めたのか、その後、木村石鹸がどんな歴史を歩んできたのかは、こちらのシリーズにもまとめてます。なかなか面白い歴史なので興味ある方はぜひこちらも読んでみてください。


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