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ブランド愛についての雑感

「私のどこが好きか言ってみて」と問われて、性格が優しいから、顔がタイプ、価値観が似てるから、趣味が合うから、といくつもの理由を上げ連ねていっても、その理由がその人だけに当てはまるものにはならない。

理由の数を増やしていけば、それらの掛け合わせで、確率的には対象者は減るだろう。でも、愛することはそもそも確率的な問題ではない。

これこれこういう理由を兼ね備えた人はかなり稀有なので、だこら、貴方を愛しています、というのはどこか変だ。

そう。愛することの理由は、言葉には還元不可能なものだ。説明できないことの中に愛があるんではないか。

愛する理由は、その人がその人だからという他ない。愛することとは、その人の此性を愛することだ。愛はトートロジーの中に存在する。

その人の此性とは、その人との関係の時間の中にも宿る。出会った当初は、他の人と取り立てて違うところもなく、「第三者」の中の一人でしかなかった人が、仲良くなり一緒に過ごす時間が多くなり、少しづつ他の誰でもない、誰にも代えがたい人として立ち現れてくる。いつしか、それはその人の此性となる。その人自身にではなく、人と人との関係の中に此性が宿る。此性なのに、関係の中に宿る、なんてのは矛盾してるけど、そういうものじゃないかな。

愛されるブランドって何なんだろうと、いつも考えてる。ブランドづくりの中で、ついつい僕とかは愛される理由をつくろうと考える。他とは違う愛される理由をいくつも作らないとと懸命になる。理由が沢山あるのは、そりゃ「良い悪い」の判断軸には多少、影響もするだろうけど、それは多分、「好き嫌い」とは少し違う話なんだろう。

理由がいらないわけでも、諦めて良いわけでもない。少しでも印象良く、好きになってもらうための努力は必要だし、アイデンティティとの一貫性みたいなものがブレない範囲においては、沢山理由があったほうがいいんだろうと思う。

でも、究極のところ、ブランドを愛するとか愛されるみたいな話も、此性ってところに落ち着くのではないか。そして、その此性は、ユーザー一人一人との関係や時間の中で培われるものなんだろう。ブランドの此性は、ブランドの中だけでは生まれない。作ることが出来ない。それは、ブランドとユーザーとの関係の中で築かれる。そこにはある一定の時間は必要なんだろうと思う。常に関係を維持し、更新し続けなければならない。そこに時間をかけなければならない。

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