人の評価は信じることから始める

人を評価することはても難しい。

何のフィルターや色眼鏡なく、人を見ることなんて、人間にはできやしない。

ドラゴンボールのスカウターみたいいに正確に相手の実力や力量を把握できたらいいだろうなと思うけど、そんな世界だと多分、多くの人が絶望感にやる気を失うかもしれない。

良くも悪くも、正確に力を測ることができないから救われてるところもあるだろうし、であるからこそ厄介な問題も多数あるんだろうと思う。

重要なのは、そういうものなのだという前提に意識的であるかどうかだと思う。

僕らはどこまでいっても主観的・偏見の眼差しか持ち得ないのだろう。それは諦めるしかないのだが、このことに意識的かそうでないかは、人を評価しようとする時には大きな違いがある。

ある人を見ている自分の評価が正しいのだという思い込みは、自身が無意識に持っているその人のイメージや雰囲気や、性格的な相性や、周りの声やってものが創りだすフィルターを見えなくさせてしまう。

人が人を評価するのは難しいということを前提に人を見ること。

自分が人を見てる時、自分の目は何らかのバイアスやフィルターによって歪められてるんだろうな、ということを意識して見ること。

この2つはとても重要なことだ。

それでバイアスから逃れられるわけではないとしても、自分を相対的に見ようとすることで、避けられる穴はあると思う。この思考を突き詰めたら、どこまでいっても、無限スパイラルのバイアスループに陥るんだが、それでも、そういう思考を持つべきだ。

あと、評価をする視点で常に人を見ないということも重要なことだ。

評価というのは、ある行動の積み重ねやその活動の積み重ねでもたらされる結果や成果に対して行う。日々日々の活動を「評価」という視点からだけで見たら、それは必ず粗探しや、マイナス探しになるだろう。いくらマイナス面ばかり探して、原点していったところで、その人が成長するわけでもない。

「羊・山羊効果」だったろうか。超能力を信じるグループと、信じないグループで、ESPカードでの透視実験を何万回も行うと、超能力を信じるグループの結果のほうが必ず、信じないグループより良い結果が出るという実験。(実験上は、ちゃんと統計優位性が保てて、良い結果が出るということが証明されてるみたいだが、詳しくは知らない。)

そのグループに超能力者がいるから僅かに肯定するグループのほうが結果が良くなるとか、そういう理由もあるのかもしれないけど、単純に何かを信じているほうが、信じていない方に較べて成績が良くなるというのは、超能力に限った話ではない。

あの人は出来る人だ、能力があるんだ、と信じて仕事を依頼するのと、あの人は駄目だ、出来ないと思って仕事を依頼するのとでは、間違いなく、後者のほうが失敗確率は上がるだろうと思う。盲目的に何かを信じればいいとうものではないけれど、どちらかを取るなら、まず信じるところから始めたほうがいいのではないか。

ちなみに、木村石鹸では、昨年に自己申告型給与制度という人事評価制度に切り替えた。これもある種、信じるところから始めたいという意思から導き出された制度だったりもする。

(この記事は、2013年1月に自身のブログに投稿したエントリーをnoteに再編集して移行させたものです)

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