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マクルーハンのメディア論視点で今春を振り返る

山中教授、本田翼は”映画”であり、星野源、SFC学長は”テレビ”である。

マクルーハンのメディア論における「ホット」と「クール」の概念にあてはめれば、
本田翼、山中教授は「ホット」、星野源とSFC学長は「クール」なメディアである。

咲き乱れようとする桜の出鼻を挫くかのように雪が降り、GWの予定を待ち遠しく浮かれた気分で過ごすことすらできない今年の春。新型コロナウイルスに関する数多のメッセージが飛び交った。

そしてその中で、個人(これは有名人でも一般人でもありうる)がメディアとして、自分自身の身体、そして感覚を拡張していた。

マクルーハンの「メディアはメッセージである」というフレーズが有名らしい

マクルーハンがメディアを研究対象としながら残した、数々の言葉の中で有名なのが、やはりこの「メディアはメッセージである」という言葉だ。

「メッセージ」という言葉には、伝わるとか媒介するというニュアンスがあるので、何となく言いたいことは理解できる気がする。

メディアとは人間の身体や感覚を拡張するものであるとマクルーハンは言う。 

メディアは人間と知覚の対象の間に存在する。つまり、コンテンツ(知覚の対象の一つ)→メディア→ユーザー(人間)である。

メッセージの発信内容だけではなく、それを記述する日本語ですら、日本語を視覚で認識可能にする活字ですら、「メディア」になる。

そして、このメディアとは単一ではなく、無数のメディアが連綿と続いて層を重ねながら、その間を満たす。

つまり、あるメディアのコンテンツは他のメディアであり、それが食物連鎖的に繋がってユーザーとコンテンツを媒介することで、伝達するのである。

影響因子としてのメディア、ホットとクール

上述の伝達が起こる際、その連続性がゆえに、ユーザーとメディアの境界も曖昧になる。

ユーザーの中にメディアが介入し、メディアがユーザー自身の一部として拡張されることで人間とメディアの境目というのは常に変化し続ける。

その境目におけるメディアの人間への関与の仕方をホットとクールという温度軸によってマッピングすることでメディアを可視化したのもマクルーハンだ。

ホットは、解釈の余地がない高密度で高精細なもので、映画のようなもの。
クールは、解釈し、参加することが可能な低密度で低精細なもの、テレビのようなものである。

そして、その温度はメディアごとに固定されるものではなく、変化することもある。

以上がマクルーハンのメディア論の一部である。

これは単なる学問的なカテゴライズに過ぎず、実用的な価値を持つイメージは沸きにくい。

この温度の概念が有機的な響きを持っていたので、メディアを生態系として捉えて考察した本もあることをヒントにすると、
人間の体温の周りに存在するメディアにも理想温度はあるはずであり、メディアがその温度に向かってホットかクール、どちらの方向に変化しているかを感じられること自体が、有効なメディアであることを裏付ける、というのが実用性の一つであると考える。

新型コロナウイルスによる緊急事態に生じたホットとクールなメディア

メッセージとして確かに伝達して自分の感覚を拡張しているという実感を持つ際に、それがホットであるかクールであるかを認識できるはずである。

逆にそれが認識できない場合は、どこかの誰かが適当に書いたような、ただ消費されるだけのメッセージにしかなり得ないだろう。

下記のメッセージたちは、自分の感覚を確かに拡張したホットな、またはクールなメッセージだ。

ホット:山中教授による情報発信サイト

このサイトは権威的であることはもちろん、メッセージ内容が端的かつ広範囲に隅々まで行き渡っている。

おそらく山中教授本人が感染症や公衆衛生の専門家ではないからこそ、一般的で分かりやすくなっていて、かゆいところに手が届く。

情報量が多すぎると思考停止になる人でも十分に理解できるので、安心にも不安にもなりすぎず、冷静に事実を把握して自走させるという本質的な変化にアプローチできている。

ホット:本田翼「3分半、私に下さい」

有名人っぽくない素人感というか、親近感がある、YoutuberよりYoutuberっぽい動画をあげている本田翼のチャンネル。

この動画はわずか3分半の動画であり、伝えている内容をテキストに起こすと大したことはないのかもしれないが、視聴者が行動変容を起こすためのエネルギーを十二分に生み出している。

クール:SFC学長の新入生・在学生へのメッセージ

ある程度マスな対象に向けたメッセージはどちらかというとホットなものであることが多いが、このメッセージは真逆を行く。

親近感のあるメッセージなのでSNSでのシェアもしやすく、参加しやすいクールなメッセージ。

クール:星野源「うちで踊ろう」

星野源は「うちで踊ろう」という楽曲を、それとセッションできるフォーマットとして発信した。
うちでできる遊びを提供することで、オンライン上での祭りのような熱気を帯びたムーブメントを巻き起こし、それに参加を促すクールな試みで、安倍首相すらも巻き込んだ。(巻き込んでしまった。)

「おうち」ではなく「うち」、英語タイトルはDancing on the inside であり、at homeではないことで、より多くの人に参加してもらおうというクールな意図も感じられる。

これらの例は、個人ごと一人の人間がホットとクールなメディアとして現れていることを紛れもなく示している。こうした変化はここ5年くらいのものである。

マクルーハンが語っていた時代のメディアは、映画、テレビ、ラジオ、新聞などのデバイス単位であり、歴史的な時間感覚で変化するものであった。

2000年以降になって、アプリケーション単位となり、その変化速度が数年単位になった。

例えば、NETFLIXはホットな映像作品をホットに楽しむために一つの作品に集中できるUIであるが、Youtubeは、CGMモデルでクールな動画が生まれやすく、いいねやコメントでの参加はもちろん、いろんな動画を見せるためのUIであることが温度をさらに冷ましている。

そしてここ5年くらいで、メディアが個人単位に細分化されたのである。

(今後は個人すらもさらに細分化されるかもしれない、すでにオンライン/オフラインで人格が分断されているとも言える。)

個人単位のメディアが、オルタナティブな社会へ向かうためのエンジンになる

活字より先にZOOMがあれば、言語によって世界が分断されることがなく、ナショナリズムの芽がむしり取られていただろうから、戦争は起こらなかったのかもしれない。

SNSやWEBメディアがなければ、感染拡大はもっと早まり、緊急事態宣言と国民の自粛努力があっても抑えきれないパンデミックになっていたかもしれない。

直近10年ほどの間にインターネットから生まれたメディアはそれほどまでに確かな影響力をもっており、人間の身体及び感覚に深く入り込んでいる。

そして、その後の個人単位のメディアは生まれてからまだ数年しか経っていない。

メディアが一人の人間に分散することで、個人間で拡張しあうことになるため、その拡張の頻度は指数間数的に増大する。

一人の人間がホット/クールなメディアとして、人間の身体及び感覚を拡張しつづけた先には、今までになかったオルタナティブな社会が現れるだろう。

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