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恥との付き合い(民報サロン 2019年4月29日より転載)

 僕は、何かにつけて人を見下す癖がある。おそらくそれは、自分が誰かに見下されているのではないか、という恐れの裏返しだと、今は思う。社会に生きていれば必ず出会う、他者の視線。視線を意識することで芽生える、恥。今回は、とてもやっかいで、未だに付き合い方を心得ていないこの意識について、書いてみようと思う。
 幼少期のころから、恥の意識が強かった。例えば、親戚におもちゃやお菓子を買ってもらえそうになった時、僕は必ず遠慮していた。本当は心の中でそれを欲していたとしても、目を輝かせてねだることなど恥ずかしいと思っていたし、一度は遠慮することが礼儀で、わきまえた姿勢だと思っていた。そういったときに、行儀の良さをほめられて抱く優越感と、いつかそこからはみ出てしまった時に、みっともないと思われてしまうのではないか、という恐怖感・劣等感は表裏一体だったように思う。
 ザ・ぷーという音楽ユニットに「ナニコレ」という曲がある。最初にこの曲を聴く時、たいていの人は驚き、ともすれば笑い出すだろう。どこかチープな音にのせて、気味が悪いくらいテンションの高い歌が流れる。「グルグル ピロピロ チャイナ チャイナ」
だが、後半のクライマックスで語りかけるように歌われる歌詞によって、それまでの意味不明なテンションの高さが、曲のテーマと呼応していたのだと気づく。
 「恥を、恥を捨てることで/人は、人は楽になれるのさ」「ああ 君のために/歌いたくない歌 歌うよ」
 やたらテンションの高い歌は、「恥を捨てる」ことを全力で体現することで、歌い手そのものが明るさと前向きさを手に入れる様を見せ、曲のテーマを「君」に伝えるためだったのだ。この曲を聴いた時に感じた心の温かさは、ザ・ぷーの勇気に感動し生まれたのだろう。恥を捨てる、というのはとても勇気のいることだ。
 恥の感情は、他者の目を意識して生まれるが、その視線を内面化しているのは紛れもない自分自身だ。実はそこには、自分はこう見られたいという理想があり、そのニーズが充たされない可能性を勝手に自分で恥として認識している。恥の意識をどう扱うかは、周りがどう見るかではなく、実は自分が何を重視しているのかによるのだろう。
 全六回の民報サロンは、ある種僕の恥ずかしい部分を見せていくような作業だったように思う。自分の心が動いた瞬間や音楽について書くために、自分の中をつぶさに観察することが多く、功名心や情緒などあまり気づかなかった部分や、明らかにしたくない部分が見えてくることもあった。ただ、それを言語化し、紙面で公にすることによって、自分が楽になっていく瞬間があった。それは、自分自身が作り出した恥の意識を、少しずつ手放していくような作業だったのかもしれない。
 恥を手放し、表出した自分の正直な姿を許してくれる人に感謝の気持ちを込めて、「ナニコレ」の最後の歌詞を結びの言葉とさせていただこうと思う。
「Thank You☆」
(文・写真 / イノウエ)

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