見出し画像

貧乏からお金持ちに成り上がった壮絶な人生『デヴィ夫人』

1940年2月6日生まれの83歳


出身は東京都港区西麻布

国籍はインドネシア

本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
由来は『宝石の聖なる女神』

日本名は根本 七保子

父は大工だが、目を患い、 
母は足が悪く、暮らしは貧しかった

幼き頃の最初の記憶は東京大空襲
初めて知った言葉はB29
だれもが貧しく道端に生えている雑草を食べていた子供時代だった

東京大空襲が終わり小学校に進学すると
絵を描くのが得意で授業中に絵を描いては先生に怒られていた。

だがクラスメイトからは『もっと絵を描いて!』『天才』と言われるほど絵が上手く将来は画家になると思っていた

だがある日、まだまだ貧しい時代だったが
明らかにお金持ちのお嬢様が転校してきて
先生方が忖度するところを見せつけられた
 
そこで貧富の差を理解し
この世は不条理。

小学生にして
戦わなければいけない。
稼がなければいけないと思うようになっていった

中学卒業後は、都内の定時制高校に進学
それと同時に倍率、150倍の保険会社
(現・ジブラルタ生命保険)に入社

貧しい家計を助けるために
昼休みや休日もアルバイトをして働いていた

だが16歳の頃に、父親が亡くなり、
弟を大学に進学させるために高校を中退し
よりいい働き口として
赤坂の「コパカバーナ」でホステスとして働くことになる

因みにコパカバーナは
超高級ナイトクラブという位置づけ

水割り1杯が大卒の初任給レベル

海外セレブなどが利用するところであり

デヴィ夫人は、その賢さと美貌、
立ち振る舞いから
『プリンセス』と呼ばれるようになる

そしてデヴィ夫人が旧帝国ホテルで
友達と待ち合わせをしていたところを
たまたま来日中の
インドネシアのスカルノ大統領の側近から
『大統領と一緒にお茶でも飲みませんか?』と声をかけられ少しだけ大統領とお茶をすることになる

その日はそれだけで終わったのだが
そこから3か月間手紙のやり取りをして
『2週間ほどインドネシアに遊びに行きませんか?』
言われてインドネシアに行くと
大統領からプロポーズされる

インドネシアでは一夫多妻制が認められているため
デヴィ夫人は第3夫人になる

そうすると、ここで日本のマスコミが
『日本を捨てた売春婦』と記事を出した

実家にはマスコミが押し寄せ
そのことから、母親が体調崩して他界

続いて、弟もマスコミからの取材攻撃に苦しんで
自ら命を断つことになる

母と弟を支えるために頑張ってきたからこそ
大変つらく、
『一生十字架を背負うくらい苦しんだ』と語る。

だがこれは神様が私に与えた啓示だと思い
これを機にインドネシア国籍になる

だが結婚してからたった3年後
1965年インドネシアで軍事クーデターが勃発する

スカルノ大統領は失脚し
デヴィ夫人は身の危険を感じ
インドネシアの日本大使館に亡命しようとするが
元大統領の奥さんを保護することはリスクがありすぎると日本から受け入れを拒否される

命からがらフランスに亡命する

その後フランスの社交界などに参加すると
その美貌が目を引いて
イギリスの伯爵、フランスの貴族ともお付き合いをし
『東洋の真珠』『社交界の花』と
呼ばれるようになる

そしてその美貌と賢さで人脈を作り
ヨーロッパの5つの大企業とエージェント契約を結び

再びインドネシアへ帰国しスカルノ元大統領から相続された遺産を使って
石油関係のビジネスを立ち上げ財を築く

そこから日本に帰国し
2000年頃からバラエティに進出
常に挑戦と言う気持ちで挑み
その毒舌さなどから
日本のテレビ界からのオファーが殺到する

そこからイッテQなど今でも体を張ったロケをしている

慈善活動としては
音楽のコンクールの主催していて
普通なら音楽関係の大学の卒業生じゃないとダメなどの条件があったりするが

クラシック音楽を目指す人であれば、
誰でも参加可能なコンクールを作り
『努力した人が報われる場所を作りたい』と
色々な人を支援している

青汁王子こと三崎優太が国税に捕まった時には
この人をこういうことで潰しちゃいけないと
人脈を使いモナコ公国の元首にお願いし
取り上げられていたパスポートを国税から取り返したりなど最強である

ウクライナがピンチの時には
誰よりも早く物資の支援もする

テレビではセレブで悪魔的な毒舌キャラだが
貧困な家庭で育ったからこそ
同じような境遇の人や若き才能を支援したりと
実は優しい心の持ち主
デヴィ夫人であった

#デヴィ夫人 #雑学 #イッテq #名言

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?