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心の整理をしようと思った話。

今朝、蓋を閉じた状態のMacbookに水をこぼした。
コップがテーブルの縁に近いところに置いてあって、引っ掛けてこぼしてしまった。何らかの罰が当たったと思った。幸い近くにバスタオルが置いてあったので、すぐに水気を拭き取って別の部屋に放置した。テーブルの上はものでいっぱいだった。今はそれを一つずつ片付けながらこの記事を書いている。

毎年この時期になると心身に不調をきたす。去年はぎっくり首で動けず、一昨年はインフルエンザ級の風邪で3週間声が出ず、味覚がなくなった。今年はまだいい方だと思いながら過ごしていたが、ここにきて数週間単位の不調の波に飲まれ、悪夢を見るようになり、創作をする気力が湧かず、ついさっきMacbookに水をこぼしたところで完全に自覚した。

兆候のようなものと、離人感

思えば3日前に首を寝違え、何もないところでグラついて体を痛めたり、寒くもないのに震えたり、体に力が入らずテーブルにコップを置く音がやたらガツンと響いたり、左耳の聞こえが悪かったりと、自律神経の不調を思わせる兆候が色々とあった。でもそれらを悪い意味で無視できていたのは、心と体がどうにも自分のものであるという感覚が希薄だったからだと思う。

離人感という言葉があるが、それに近いかもしれない。自分の目で見ている世界が横並びの3面モニターに映し出された仮想空間のように感じられ、耳に届く音は低周波ノイズだらけで定位も狂っている。おそらく私の脳が現実世界の負荷に追いつけず、勝手に情報の質を落として処理している状態なのだと思う。
これは私が人生の中でも本当に調子が悪かった時期にずっとあった感覚なので、今さら身に覚えのない恐怖は感じない。半ば諦めた気分で「ああ、またか」と思っただけだった。

夢の中を歩いているような感覚。どうせ覚めるのだからここで何をしても無駄、というあの感覚。現実感がない。
もしかしたらMacbookが起動せず買い替えになるかもしれないが、さほど悲観していない。今年分のデータはほぼDropbox上にバックアップしてあったし、むしろ失われたデータに対して本気で悲しいと思えるほどの感情が残っているのかも怪しい。

好きな作家さんの引退発表

先日、SNS上でとても好きだった作曲家の方が引退を発表した。正直すごくショックだった。
その方は私から見てものすご〜〜〜〜く繊細な感性の持ち主で、そのことは発表していた作品からも感じられたし、自分の心や命を削りながら作品を生み出すタイプの方だろうなと思っていて、何というか、気軽に「次回作楽しみにしてます!」とか言える感じではなかった。自分の心と命を大切に生きていってほしいと常々思っていた。
だから引退発表も、自分の心が完全に壊れる前にとった措置で、おそらくその方の人生における英断なのだと思う。よくそのことを教えてくださったなと、自分にも他人にも誠実であろうとする方なのだと改めて思った。

ここからは私の話。
上記の一件があってから(むしろその前からかもしれないが)、SNSや今までの創作活動自体がどこか廃墟のように感じられるようになった。誤解のないように言っておくと私は廃墟の写真を見るのが好きだし、そういう世界観の作品もとても好き。でも、自分の住処がリアルタイムで廃墟になるのはしんどい。行くあてがなく、とても狼狽えた。

自分にとってのSNSと、これまでとこれから

そもそもSNSを自分の住処だと思っていたこと自体がかなり危険な状態だったように思う。ただ少なくともこの半年、私はSNS上での繋がりからたくさんのものを分け与えてもらったように思う。
いただいたお仕事も、参加したコンピも、交わした言葉も出会った音楽も。それがなければもっと小さな範囲(自分の部屋の、自分の心の中)にだけ引きこもっていたと思う。だからSNSを通して活動してきたことを全く後悔はしていない。

ただ、これまでとこれからは分けて考えたほうが良いと思う自分がいる。
今まで正しいと思っていたことを明日も信じられるとは限らないこと。今まで快適だった方法が明日も快適だとは限らないこと。これまでしてきた努力と、これからするべき努力が同じだとは限らないこと。

しばらくは体を治すことを第一に考え、毎年訪れるこの季節を乗り切ることを目標にいっときの精神的な住処を確保しにいきたいと思います。

シリーズ作品の続きも新作も、見てもらいたいなと思う人がいるので。
またここに帰ってこれますように。

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