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人の悲しみに触れるとき。

人の悲しみに触れるとき、ふと我に返ることがある。我に帰るというのは、自分の認知が歪んでいたことに気付くということ。今日はそんな体験をした。

よく「傷ついた分だけ成長できる」といった言葉があるが、あれは嘘だ。嘘というと言葉が強すぎるかもしれないが、少なくとも私が成長するタイミングは自分が傷ついた時ではない。《人を傷つけたことに気付いたとき》と、《人の悲しみに触れたとき》だ。

自意識の切り替わりのタイミング

今日はそのどちらも経験してとても精神的に負荷のかかった日だったが、ここ数ヶ月悩まされていた憑き物が落ちた気がした。視点が一気に他人本位に切り替わり、状況を整理して、「無駄な不幸が起こらないために何ができるのか」を意識が勝手にサーチし始める。

そうなると一時的に自分がどこかへ消えてしまったような感覚に陥るが、自意識というものが悪霊のすみかのようなものだと考えれば、一瞬で除霊されたと考えれば悪いことでもない。

それに、この感覚は物作りに夢中になってゾーンのようなものに入る感覚ととても似ている。この感覚に身を委ねていれば正しい方向に導かれるのだろうと感じるのだ。

こんなとき、音楽があってよかった

今日はたまたま締め切りの近い案件に着手していて、本当はそのまま寝たほうがよかったのかもしれないが、30分のタイマーをかけて作業してみることにした。感情の悪霊を払った後の心の清らかさはそう長く続くものでもないと思ったからだ。

結果は、1時間ほどかかってしまったが良い素案ができたと思う。たぶん作業していなかったら余計なことが浮かんできて辛くなっただろうと思う。

こんな日に、自分に音楽がなかったらどうしてたんだろうと思った。音楽は私にとって、誰にも邪魔されずに感情を体感できる装置のようなものという気がしている。作りながら、それを聴きながら、そこに生まれた感情をただひたすら肯定していく。

だからこそ、音楽で嘘をつきたくないんだなと思ったりした。作るときも聴くときも。そこでまで嘘をついてしまったら、自分や生まれてきた音楽が浮かばれないと思うから。

少しずつ正直でいられる時間がのびますように。
おやすみなさい。

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