遅れてきた手紙

本棚の整理をしていたら、古い本のあいだから何かがするりと落ちた。
淡い水色の封筒だった。手紙が入っていた。

几帳面な、だけど独特のクセのある字体に、ああ、あのひとが·······と数十年前の顔を思い出した。


そのころ私は大学四年生で、ある大学の理工学部の研究室で秘書のアルバイトをしていた。

たぶんいまは派遣の人がやっているのだろうけれど、そのころは大学の学生課に「教授秘書アルバイト」という募集の貼り紙がしてあるような時代だった。インターネットなどまだない、多くの事務処理が紙でなされていた牧歌的な時代の話だ。

大学四年の一年間、電気通信学科というおよそ未知の世界に属する人たちが集まる研究室に、私は週二日通うようになった。
ハーバード帰りの若い教授の研究室で、電話に出たり、書類を整理したり、先生の書いた英語の原稿をタイプライターで清書したり(そう、まだパソコンが一般的ではなかった!)、先生お気に入りのコーヒー豆を駅前の店まで買いに行ったりというのが仕事だった。

昼食は研究室の学生や院生たちと学食で一緒に食べた。
これもまた時代を感じさせるエピソードなのだけど、当時の工学部はもっぱら男一色の世界で、私が同じフロアで見かけた理工学部の女子学生はひとりかふたりだけ。だから先生が私を気遣って、学生たちに「お昼を一緒に食べてあげて」と言ってくれたのだった。

学部の四年生と院の二年生は就活や卒論や修論などで忙しそうで、姿を見かける頻度も話をすることも少なかったけれど、「M1」と呼ばれる大学院の一年生とはよくしゃべったものだった。昼食もたいていその人たちと食べた。居酒屋にも何度か一緒に飲みに行った。たしか一回だけ、ボウリングにも行ったように思う。

私は私で四年生だったから、就活に励まなくてはならない身ではあった。
が、これもまた時代を感じさせてしまうけれど、当時はとくにメーカーなどが大学生を大量採用した時代で、おまけにESなんて面倒なものもなかったから、四大の文系女子は就職が厳しいとは言われていたものの、いまの大学生ほど追い詰められてはいなかった。
「まあどこかには入れるだろう」
そんな、まるで根拠のない楽観を多くの子がしていた。良きにつけ悪しきにつけ、お気楽なムードが社会に満ちていたのだ。

説明会や面接の日が重なったときにはバイトの曜日を変えてもらい、就活がピークになる二か月ほどの間だけお休みをもらったりして、私はどうにか会社訪問をこなした。もちろん、バイトも遊びも返上し、ひたすら就活に集中している子もいたにはいたけれど、それは知名度が高い一定規模以上の企業にどうしても入りたいとか、ある業界でどうしても働きたいとかいう人たちだった。私はただ漠然と、専攻した英語が使えればいいやくらいにしか考えておらず、わりとアバウトに会社を選んでは説明会に参加していた。

大学四年のときは大学にほとんど行かなかった。四年間で取り終えなくてはならない単位を三年までですべて取り終え、おまけに卒論もなかったので、最後の一年はバイトと就活をして終わった。

卒論がなかった、といま書いた。
書き間違いではない。ほんとうになかったのだ。
正確にいえば、卒論を選択しなかったのである。
これを言うとみんな唖然とするけれど、当時私が通っていた大学は、卒論を書くかわりに講義を二単位だか四単位だか余計に取れば卒業できたのである。
となると、学生たちは楽なほうに流れる。大学院に進もうとか、学んだ証しを残そうとか殊勝なことを考える人でもないかぎり、みな卒論無しのほうに流れるものである。私の友人はほとんど卒論を書いていない。
いまはどうなったか知らない。世知辛い時代だから、たぶん書かなくてはならないんだろうな。

先日、ある大学で教えている人の話を聞いて驚いたけれど、いまの学生たちは「ちゃんと教えない教師に対して非常に厳しい」らしい。まともな授業をしないと、学生が授業後に書く評価シートのようなものにかなりキツいことを書かれてしまう、とその人は気に病んでいた。

まともな授業ってどういうの? とにかくみっちり教えろってこと? そんなの息詰まらないかな。もっとゆるくて、自由にぼんやり考える時間もらえる授業のほうが嬉しいと思うけど。なんなら休講にしてもらえるともっと嬉しい。
そう言った私に、その人は両眼をくるりと回して天を仰いだ。

話を元に戻すと、当時の私は、いまの基準からすればありえないほどゆるゆるで超楽観的な大学生活最後の一年を送っていたのだった。

M1の彼らといったい何を話していたのか思い出せない。
みんな気のいい優しい人たちで、たわいのないことをだらだらしゃべっていただけだったと思う。私を雇ってくれた先生はものすごいお坊ちゃんだとか(世田谷区の豪邸に暮らす独身四十歳)、就活をどうするだとか、研究室の先輩の噂話だとか、私の大学のこととか、音楽や本の話とか、ちょっとだけ彼らの研究の話だとか。

いや、音楽と本と研究の話をしたのは、その中でただひとりだった。


私と同じ大学、学科、学年にいとこがいるんだけど、とその人は言った。
コバヤシって、いるでしょう?
ああ、シンゴくん?
まず思い浮かんだのは明るく派手な男子だ。
いや、女なんだけど。
コバヤシ·······あ·······ヒロコ?
そう。
「へえ、ヒロコのいとこなんだ!」
廊下で私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
私の通っていた大学は、名字のアルファベット順に学科が二クラスに分かれていて、ヒロコは別のクラスの、はきはきと明るい女の子だった。クラスは違ったけれど、外国語学部だけのこじんまりした大学だったので、話はわりとしたことがあった。

それをきっかけに私はその「ヒロコのいとこ」とよくしゃべるようになった。
本の話、アートの話、演劇の話。
といってもそんなにディープな会話ではない。あれはいいよね、とか、あの人がこんなこと言ってた、とかいった程度の浅い話だ。ジャズのことも少しだけ話したかもしれない。
ヒロコのいとことM2のなんとかさん(名前は忘れた)があるときジャズの話をしているのを見かけたものだから、ちょっとだけ話を振ってみたのだ。そのころの私はとにかく背伸びしたがりの生意気盛りだったから、たいして知りもしないくせに、大学の友だちに教えてもらったジャズプレイヤーの話なんかをちらりと口に出してみたりした。

研究室にバイトに行くとき、私はたいてい英和辞典を持ち歩いていた(もちろん紙の辞書です)。だからヒロコのいとこは、たまに辞書を貸してほしいと私に言ってくるようになった。
そのうち村上春樹の話をするようになった。
春樹のどの本を読んで、どれがお気に入りか。
そのほかにどんな作家を読んでいるか。
春樹の翻訳ものを読んだことがないとむこうが言うので、私は買ったばかりの『マイ・ロスト・シティー』を貸してあげた。

「ぼくの妹もユウコって名前で」
あるとき彼が言った。そして私の顔をのぞき込むようにした。
「なんで私の下の名前、知ってるの?」
「辞書に名前書いてあったから、ローマ字で」
Oさん(私の旧姓)はどんな字のユウコさん?
私は、ちょっと珍しいその漢字を教えた。
「へえ。うちの妹はいとこのヒロコさんと同じ漢字なんだけど、読みかたが違うんだ」
なんだか、奇遇だね。

彼はどちらかというと繊細そうで、ほかのM1のように大きな声ではしゃべらず、静けさを好みそうな印象があったけれど、なんとなく私と話が合った。
そうしたことはなかったけれど、たぶんふたりで喫茶店に入れば、コーヒー一杯で二時間くらい、とりとめのない話をできたのではないだろうか。
恋愛感情は抱かなかったけれど、同じ質感をもった、どことなく気持ちが落ち着く人だった。

やがて私は都内のメーカーに就職が決まり、卒業と同時に研究室のアルバイトをやめた。私がやめたあとは、大学の一年後輩のツルちゃんが先生の秘書をすることになった。
その後もたまに、ツルちゃん経由で飲み会とかボーリングに誘われたりした。けれど私は社会人一年目の生活に一杯一杯で、顔を出す時間も心の余裕もなかった。新しい同期、またしてもアメリカ帰りの上司、アメリカの本社との汗かきかきのやり取り。そして飲み会。
私は学生の彼らより一足先に次のステージに進んでいた。


研究室のバイトをやめてほぼ一年後、ヒロコのいとこから突然電話をもらった。たぶんツルちゃんに番号を訊いたのだろう。就職先が決まったという報告だった。
「長野に戻るんです」
彼は長野の人だった。会社の名前を訊いたら、だれもが知っている大手電機メーカーのグループ企業の名が出てきた。
「そこの研究所が長野にあるんで」
「おめでとう。なぜそこにしたの? やっぱりご実家に近いから?」
「うーん、というより·······」
彼はそこでひと息入れた。
「共同体みたいな感じの会社だなと思って。そういう場所で働きたいなと」

ああ、なるほど。彼らしい答えだ。

そのあともしばらく話はつづいたけれど、何をしゃべったのかまったく思い出せない。ただ、むこうがなんとなく時間を引きのばしている気配があったことだけは憶えている。
でも、どんな電話にも終わりがくるわけで。

「じゃあお元気で」と私は淡々と言った。
「Oさんも、お元気で」
そう言って、受話器を先に置いたのはどちらだったのだろう。

水色の封筒がはさまっていた本は『マイ・ロスト・シティー』で、手紙の送り主はヒロコのいとこだ。
何十年も前、大学の廊下かどこかで返してもらった本に手紙がはさまっていたことに気づかないまま、私は本を棚に入れ、以後ずっと開かなかったのだ。
手紙には、妹が同じユウコという名であることや、いとこのヒロコと妹のユウコが同じ漢字であることや、マイルズ・デイビスやコルトレーンのことが書かれてあった。よければほかにも本を貸してほしい、ぼくの本でよければお貸しします、とも。


「そのひとさ、あなたに気があったんだよ、きっと」
この話を聞いたマユミさんが言った。近所の友人である。
「ああもう、その手紙、なんで本を返してもらったときに気づかなかったわけ? 読んでたらつき合ってたかもよ、そのひとと」

まさか。私、そんな気なかったよ。
いや、わからないよ、そういう手紙もらったら。いまごろここでこうしてなかったかも。
「いまごろ長野に住んでたかもねえ」
マユミさんはそう言うと、ふふっ、と笑った。
私も黙って笑うしかなかった。

懐かしいというのではない。
会ってみたいというのでもない。
けれど、彼がその後どんな本を読み、どんな音楽を聴き、あるいは聴かなくなったのか。
「共同体」はどんな感じなのか。
電話かメールで訊いてみたいような気はする。


大学生がスマートフォンもパソコンももたず、暇だからと本を読んだり、音楽を聴きながら手紙を書いたりしていたころから、時空を超えて手紙が届いたというだけの話です。



こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。