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虎の威を借るくらいなら良い狐ー肥大化する自我

こんばんは。イラストを描く仕事をしているつかはらです。
Adobe Frescoがリリースされまして、もともとiPadで絵の制作をしている私としては最高のおもちゃ、否、ツールが手に入り夢中でいろいろ試しています。
(見出しの画像もそのうちの1枚です)

今日は虎の威を借る狐の話。
最近ともだちと話題にしていたのですが、
とかく色んな権力というのに人は弱いよねというお話。
権力のある人にひれ伏してしまうという意味ではなく、権力を持った途端チカラに負けてしまう人が多い、という意味での「弱い」です。
自分にも被害あるし、別の友人にも相談されたので普遍的なのかなと思いました。

組織が「虎」になる話

「権力」と書いたのですが、
正確には「組織内での地位」という形で言い換えられます。

別に「会社の社長」じゃなくてもそういうことは起きているなぁと思っています。
満員電車で絶対ひとに譲らない/道を開けない人とかいるじゃないですか。
あれを見てよく思っていたのが
「どこでどれだけ偉いかわかんないけど、電車じゃ関係ないのにな」
ということです。
ま、満員電車に乗ってるくらいだから、そんなに偉くないと思うんだけど。(酷)

会社や組織のなかで地位を確立していくことが難しいのはわかっています。
正直、出世競争というものには参加もせずにドロップアウトした私なので
それがいかに大変なものかも重々承知しています。

だからこそ、
何かの会社・組織・コミュニティで「長」に選ばれたことは確かにすごいです。
そこだけは認めます。

ただ、会社や組織は「虎」で自分は「狐」であると思っていましょうよ
と感じているんです。
その区別ができなくなって、色々な関係性が崩れていくのを最近よく見るのです。

自分を「虎」だと勘違いしてしまう話

会社や組織は「虎」で自分は「狐」である
なのに、自分が「虎」だという勘違いになってしまうことがあります。
「会社」だったり「社会的組織」だったり
ある程度自分のコントロールで動かせる「人」と「お金」があったときに
それが「自分の力」だと勘違いするような人が多いと感じているのです。

でもその「会社」や「組織」は「自分自身」ではないはずなんですよね。
その境目がなくなってしまうことを「肥大化した自我」と友達が言っていました。

友達に確認してませんが、ここでいう「自我」は哲学的な意味です。

哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的主体として、他者や外界から区別して意識される自分。
ーデジタル大辞泉より

つまり、いろんな人が集まって協力して組織を動かしているのですが
それが自分の意図や思想でコントロール可能になればなるほど「自分の一部」だと感じてしまいやすくなる。
「組織」が「自分」になっていく。
「自我=他者や外界から区別された自分」の「範囲が広がって」いく。
「肥大化した自我」というわけです。
つまり「虎を威を借る狐」が「借りた威で虎だと思う狐」になっていくのです。

それは決して自分自身だからコントロールできるわけではなく
人間関係の上で信頼というもので結ばれていて初めてできるわけです。
でも「もう狐ではなく虎だ」と思った瞬間、
「信頼」というファクター(つまり借りた威の一部)は見えなくなってしまう。

組織にいる人も「自分」だと思っているので何とかして意のまま変えようとしたり
思い通りにならないと権力でなんとかするようになったり
誰もが間違ってると考える主張を感情的に押し通したりしようとします。

いません?こういう人。
特に役職になった途端に、こういう行動に出てしまう人。

「コントロールできる範囲が大きい」かどうかも関わってくるように思います。
つまり役職が高ければ高いほど起きやすくなってくるように思います。

それ以上にこの「借りた威で虎だと思う狐」さんになるのは
組織を作るのに対して大きく関与していればいるほど起きやすいように思います。
自分の力がなかったらできなかった組織である、という思いが強いからでしょう。

「作ったもの」が「自分」だと思ってるのは誰かなという話

自分が努力して作った組織ほど、成功した時に自分の成功と組織の成功が同一化しやすいのは想像に容易いです。
それは作った本人ばかりではなくて、
周りもそういう認識を押し付けていく場合が多いように思います。

数日前にZOZOを退任した前澤氏がこんなことを言っていました。

自分で出資して創業した会社は、何があっても株を持ち続けて自分が意固地になって死ぬまで経営すべきなの?

こういう発言が出てくる根っこの方には
「前澤氏」=「ZOZO」と周りが同一視していた感覚があります。
でも組織は組織、自分は自分で
それを動かす「人」と「お金」と「システム」があれば、それを作ったかどうかは関係なく継続していくものなのです。

それと同時に
作ったものは自分の一部であれ
という思想は作り手ではない人がよく持っているものです。

逆にこういうことを言える人が自分で作ったものが成功した時に
「肥大化する自我」を止められなくなり
「借りた威で虎だと思う狐」になっていくのではないでしょうか。

クリエイターとして日々感じるのは、「作ったもの」(それが作品であれ組織や会社であれ)と「作った人」を完全に同一視されることです。

電気グルーヴ販売停止の件でも同じことを感じていました。

作品と作者が同一視されて、作者の素行が作品の評価や販売に影響していくことが
当たり前になっているのが現状です。

そうやって作ったものと作った人が同じだと思っている人が多いからこそ
少しでも自分の作った会社・組織・コミュニティが「自分」になっていってしまうように感じました。
自分が1から作っていなくても、自分が「長」としてコントロールして
「現状を作った」というだけでも「自我」が肥大化していく印象があります。

「作ったもの」と「作った人」の境目の話

クリエイターの1人としては、「なぜそんなことを思えるのだ」と感じています。
作者自身の評価や価値と、
作品の評価や価値を区別しなかったことなどありません。
最近作者自身をブランディングすることで作品を売れるようにする向きがあるので
まぁどんどんその評価は混在しているなと感じますが。

漫画家のかっぴーさんが書いていたnoteです。

「読者とフォロワーの何が違うんだ」って話ですけど、ぼくが思うには「読者は作品に付き、フォロワーは作者に付く」ものなんじゃないかと。

こういうことを肌で感じているのが「作者」であってクリエイターであって
何かをしっかり作っている人なのですよね。
つまり、本来は「作ったもの」と「作った人」はまったく別軸の評価なのです。

作品であれ、会社・組織であれ、コミュニティであれ。
自分とは別軸の評価だと思っていないと、いろんなものを見失っていくのを
最近何度もいろんな人からいろんな形で見せつけられています。

肥大化させない自我を持つこと。
それは、作ったものと作った人を分けて認識すること。

作ることが多いからこそ、自戒をこめて。
虎になった気の狐さんに困ってる人たちへ。

おまけ1

クリエイターが自己肯定感に著しくかけている話。

考えてみれば、幼い頃から何かを作っては人に見せて褒められてきた経験が人より多いのがクリエイターなのでは?と思っていて、つい作れちゃうものだから周りも「モノ」でクリエイターを褒めがちになって人格や存在を褒めてもらった経験値が著しく少ないのが起因しているのでは、と個人的に考察している。

今までの話を応用すると、膝をポンッと打つくらい合点が行く。

つまり。
褒める方は、「作品=作者」の意識も持って褒めている可能性が高く
褒められるクリエイターは「作品≠作者」の意識を持っている可能性が高いのではないでしょうか。

なんていう悲劇。
そんな私も自己肯定感は低く、作品しか褒められたことのないタイプです。
おかげでこんなnoteも書いているよね。

おまけ2

どこかでこの対談に出てくる宗教づくりの話に触れたかったんだけど
ぜんぜん入れこむ隙がなかったので参考として掲載します。

そういえばIT批評家の尾原和啓さんがこんな話をしていました。

宗教のコミュニティができあがってくには段階があって、
最初は人についていく「教祖の時代」、次にその教えをまとめた「教典の時代」、そして最終的には「教会の時代」になり、その厳かな雰囲気に魅せられて人が増えていくのだと。
企業も、この順番を追うべきではないでしょうか。

「借りた威で虎だと思う狐」さんは「教祖の時代」の「教祖」が多そうですね。

ちなみにZOZOはこれでいうと教祖の時代から教典の時代になったんだろうなぁ。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。