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「自分は大丈夫」に脅かされた体験から考えるワクチンを打ってほしい気持ち

下書きになかば腹を立てて書き殴った「ワクチンハラスメント」の話があります。
読み返すとこれを公開する気にはなれないんだけど
根本にある思いとしては変わっていません。

その下書きに書いてあるのは、
端的に言えば「ワクチンを打たない人とは友達でいられない」です。
まぁそんなキツい言い方じゃなくもっと理性に落とし込んで同じことを書いていこうと思います。

あ、もちろん友達の中には免疫系にかかわるであろう病気を患っている子もいるので、そういう友達が接種しないのは別の話です。

「伝染する」病気の恐怖(私の体験談)

おそらく3〜4歳の頃だったと思う。
その当時、社宅マンションに住んでいてその日は同じ年代の子供たちが集合して
簡易プールを出して遊んでいたんです。

その中に少し湿疹みたいなのが出ていた子がいた。
とは言え、私だって汗疹だらけだったはずでその時はさほど気にしていなかった。

数日後。
私の体の側面は左右とも脇の下からお尻の辺りまで全て水疱が破けただれ、皮が剥けて、服をまともに着ることすらできなくなっていました。
そのためいくつかの服を脇の下から全て切り裂いて、それを着て病院に通う日々。
それでも治らない。

とうとう1番のお気に入りのパジャマも切り裂かれてしまいました。
その光景を強烈な痛みと悲しみとともに覚えています。

最終的に皮膚科の名医に静岡から上京して駆け込み診てもらうことで治っていきました。
その時の剥けた痕は今でもうっすらと身体に残っています。30年以上経っても。

なんだったか、というと「伝染性膿痂疹」つまり「とびひ」です。
ただのちょっとした水膨れだから遊ばせていたその子から伝染り、私は身体中がズル剥けになりました。

このコロナ禍で「軽症だから大丈夫」と笑ってる人たちを見ると
否応なくあの痛みと苦しみと(パジャマ裂かれた)悲しみを思い出して
今でも残るその痕を見つめてしまいます。

社会とはなんぞや

「ヒト」であり「人間」であるということ「社会」がなぜ必要なのかということ
そういったことを、いつまで経っても何千回でも読み返したい名文があります。
なんと知恵袋に…
全文コピペをお許しください。

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません
 弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません
虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
***
自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です
個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
 「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)
そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです
必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです
そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです
10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります
「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です
どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
 人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよあるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です
遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれませんだから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです
(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
 ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです
その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです
だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

社会の人であるとはなんぞや

SDGsがなぜ立ち上がったか、すらもこの名文は説明してしまっているようにも思います。

出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略=社会

「誰一人取り残さない」
それは明確に人間が種を保存していくための生存戦略そのものです。

コロナ禍における、なぜ医療体制が問題か
なぜ高齢者からワクチン接種をするのか
こういった疑問も上記の「社会」の捉え方を参照するとたちどころに意味がわかります。

実は自分の生活における全てを、自分で考えなくていいように「社会」はしてくれています。

例えば、生きていくには「水」が必要です。
その水をどこから調達するのか、水道があるから考えなくていい。
その水道もどこをどうやって水道管を引くか、とかまで「誰かが」考えてくれています。
水道業者の人も他の部分は誰かがやってくれることで生きていく術があるわけ。

この自分で考えなくていい・自分でやらなくていい…という部分において
社会の中では自分は「弱者」なんです。

だから誰でも「弱者」だということは紛れもないことなのです。
その弱い部分を「誰一人取り残さない」と目指していくんです。

私は取り残されていない、と思ってる側でしょうか。
取り残されている!って思ってるんでしょうか。

でも全てで取り残されてはきてないから、生きてるんじゃないでしょうか。
インフラがあるだけでも立派に誰か(社会)から守られているんだと思います。

私にできるのは「誰かを取り残さない」ようにすることだと思うんです。
それはこうやって文章で書くことで誰かの理解が進んだり
漫画にしてもっとわかりやすく伝えられたり…
そうやって「誰かを取り残さない」努力に歩を進めてくれる人がいればいい。

「弱者」は廃れろ・自分は平気だから関係ない
そうじゃなくて「社会」に守られるだけじゃなくて
私は人間性・社会性を持って「誰かを取り残さない」ことを考えていきたい。

そのうえでワクチンを考える

今朝こんなツイートを目にしました。
厚生労働省が発表している発生動向速報値において
6月30日のデータと7月7日のデータを比較したものです。

この1週間の年代別推移は、  
    陽性者数   死亡者数
20代 → 3306人増  0人 
30代 → 2262人増  0人
40代 → 1975人増  2人増
50代 → 1648人増  7人増
60代 → 737人増   17人増
70代 → 395人増   43人増
80代 → 346人増   129人増 です。

数字の確かさは元データあたっております。
ただ発表されている数字が有効なのかはまた別の議論があるとは承知の上です。

「高齢者ほどリスクが高い」というのはもはや常識のようになっているのですが
それを見て欲しいわけではないのです。
因果関係を省略して「風が吹けば桶屋が儲かる」話かもしれませんが

年齢の低い層の感染が増えると高齢者が死ぬんです。

今までの話を総合して書くと高齢者を生かすために年齢の低い層の感染を増やしてはいけないんです。
高齢者を取り残さないようにしていくんです。
それはやがて自分たちにもやってくる未来としての高齢者です。

高齢者だけじゃないと思うんですよ。
重症化リスクの高い・低いは、持病やその人の感受性(かかりやすさ)とも関わってくるわけでしょう。

このコロナ禍で「軽症だから大丈夫」と笑ってる人たちを見ると
否応なくあの痛みと苦しみと(パジャマ裂かれた)悲しみを思い出して
今でも残るその痕を見つめてしまいます。

自分は大丈夫って笑っているだけじゃなくて
大丈夫ではない誰かを取り残さないように、歩を進めてみませんか。
それはほんの少しでも自分自身を守ってくれている「社会」のためです。

老害だから体が弱いから頭が悪いから素行が不良だから
それで守られない/守ってはいけないというわけではないんですよ、社会って。
誰一人取り残さずに守っていくんです。
めちゃくちゃ納得いかないこともありますよ、そりゃ。
いまそれを愚直に体現している医療、本当に医療従事者はすごいと思います。

お前ら守ったからには守れよ、って言えばいいんです。
それは外出自粛とは違った方法で、もっとずっと数字でわかっている方法です。

それが「ワクチン接種をする」ということだと思っています。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。