見出し画像

「表現の不自由展・その後」ー現代アートはなぜ自由になれない?

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について意を決して書いてみました。
いろんな情報や意見が渦巻く中、考えることは多くありました。(あまりに考えすぎていつもの倍量の文字数になりました)
私も展示を見たわけではないものの、なぜ賛否がここまで割れているのか、なぜこういう事態になっているのか、、
そこには現代アートをめぐる根本的な問題があると思っています。

アート界のもっとちゃんとした知識をお持ちの方にとっては、知識が不十分な部分もあるかと思います。不勉強は重々承知なのでご指摘歓迎します。

話がややこしくなるので、助成金関連の話は触れることをやめました。
また作品を実際に拝見していないので、個々の作品に対する批判や評価をしているものでもありません。(一部そう受け取れる表現となっている可能性がありますが、決してそういう意図はございません)

ご承知おきください。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」

そもそもこの展示はどう言った内容のものなのでしょうか。
報道では慰安婦問題や御真影についてばかり取り沙汰されて全容としてのコンセプトが見えてきません。

特設HPのごあいさつがより意図を感じられるものになっています。

自由をめぐっては立場の異なるさまざまな意見があります。すべての言論と表現に自由を。あるいは、あるものの権限を侵害する自由は認めるべきではない。
本展では、この問題に特定の立場からの回答は用意しません。自由をめぐる議論の契機を作りたいのです。
そして憂慮すべきなのは、自由を脅かされ、奪われた表現の尊厳です。本展では、まずその美術作品をよりよく見ていただくことに留意しました。そこにこそ、自由を論じる前提があることと信じます。そして、展示作品の背後にはより多くの同類がいることに思いを馳せていただけないでしょうか。

もともと作品が過激な表現であったとみなされ、展示ができなくなっていた作品たちだったと言えます。
ただ本来の作品の意図やその背後にもしかしたら反感を抱いた人々と同じ思いがあるのではないかとも挨拶文からは推察されます。
ただし、十分な「美術的価値」があり「正しいかたちで受け止められるべき作品」でだったのでしょう。

それが再度、反感を買い、脅迫され、中止に追いやられてしまった。
では、一体なぜ誰のせいでこんなことになってしまったのでしょうか。

アートは「美」や「快感」だけのものではない

そもそも「傷つく」「不快」「心を踏みにじる」ことを「表現してはいけない」のでしょうか。
それは「傷つく」「不快」「心を踏みにじる」ことを「人に対してする」こととは違います。

特に現代アートにおける「表現」は決して「美」や「快感」だけを表すものだけではなくなっています。

その転機となった作品が、デュシャンの「泉」という作品でした。
工業大量生産品の便器にサインをしただけのものを美術館に展示するという作品。それがたとえ大量生産されている便器であっても
作家と思しき人がサインをして
権威のある美術館という場所に展示されたとき、
アート作品として成立するのか。

権威の場所、作家のサイン、そういった形骸化した条件が揃えられれば
「芸術」として評価されることに対して、批判的に問題提起したのが「泉」という作品でした。
より詳しく説明されているのがこちらの記事です。

「アート作品は目前にある美しい絵画」という概念から、 「その作品を起点にして、鑑賞者の頭の中で完成するのがアート作品だ」 というコペルニクス的転回が起こったわけです。

作品をきっかけに鑑賞者が自分に問題を投げかけることで、それを鑑賞者自身が解釈し理解していく
それが現代アートの作品の受け取り方だということなのです。

アートの現在の姿

作品をきっかけに鑑賞者が自分に問題を投げかける
…簡単に書きましたが
自分の無意識下に置いていた問題を目の当たりにすると人はとても衝撃を受けます。
短期的には、傷付いて立ち直れなくもなるでしょうし、その悲しみで怒り狂うこともあるでしょう。
しかしその感情が、問題が「問題」であることの証でもあるのです。

私だって日常において自分の欠点や問題をズバリ指摘されれば
ひどく傷付き嘆き悲しみ、怒りを露わにし、不理解を責めるでしょう。
それは日常において・人と人の関係性において、であって「表現」に適用してもいいとは言えないと思っています。

もう一度書きますが
そもそも「傷つく」「不快」「心を踏みにじる」ことを「表現してはいけない」のでしょうか。

「表現」は一次的な「感情」と「分別」できていなければならないのです。
それを「表現」として「見る」ことにより(バーチャル体験とも言える)
問題として無意識から意識にのぼらせる(ここに痛みがある可能性は高い)ことで
個々の鑑賞者へ解釈・理解に進ませることが現代アートの役割だと思っています。

そうやって「自分の心の解釈」をしておくことは、現実に衝撃的な場面に出会う時の準備にもなります。
またはそういう衝撃的な場面を回避する強い原動力にもなります。
「表現」はバーチャルでもあります。
それが現実を豊かにするための自己理解を進めるものでもあると思っています。

(参考)
「はだしのゲン」小中学生に貸出禁止に疑問の声《戦争の記憶、どう繋ぐ》
 中止になった経緯と、わりと同じ反応だと思うのですが…どうでしょう。

「鑑賞する側の変容」の大事さ

先に挙げたデュシャンの「泉」がなぜアートなのか。
ただの「便器」じゃないのか。
何も考えず読み取ろうとせずに、作品だけを見ていたら理解に苦しむでしょう。

実際、発表当初のデュシャン作品は捨てられていますし、こういったことは絵画の世界だけの話ではありません。
音楽においては、ジョンケージの「4分33秒」を思い出すでしょう。
こちらも初演の直後は悪戯だとか言われたり、酷評されたそうです。

ただ、それらの意図が知られることにより、作品の持つ意味を理解されてゆき
今でもなおどちらもアートにおける転換となるような作品となっています。

現代におけるアートには、しばしばこういう
「コンテキスト(文脈)」を読み取ることで
そこにある「コンセプト」や「問題提起」の全容を理解してゆく

というプロセスが必要です。

小崎哲哉著「現代アートとは何か」(河出書房新社)の中で
アートがデュシャン以後変わったことと同時に、鑑賞する側にも変わることが求められていると書かれています。

作品はそれ自体では完結しない。つくり手がつくった後に、鑑賞者が鑑賞しなければならない。

こちらの著書について鑑賞者の部分をじぶんなりに要約すれば以下の通りです。

鑑賞者は、知覚し認知した後それを超える「能動的な解釈者」ともなるのである。
色や形、明るさ、硬さなど五感を通して知覚したことで、喜怒哀楽などの認知が得られる。
その後、その知覚と認知を能動的に、選択し、判断し、命名する。あるいは批判し、選別し、断片化し、結合する。つまり解釈する
そのためには作品についての知識や情報が必要である。
その対象についてよく知らなければならない。
つまり「現代アートとは何か」という問いである。

つまり、鑑賞者は解釈する人であって、そのためには作品について知識や情報が必要なのです。
その知識と情報によって「コンテキスト(文脈)」を読み取れるようになります。
作者のもつコンセプト・意図、美術史的な文脈などを読み取った先に
自分の感じた感情を作品の中で解釈していくことで
「評価」「批判」できるステージにあがれるということだと思います。

特に今回の映像作品は「感情に訴える衝撃」が大きいでしょう。
だからこそ、その点での批判や拒絶反応も多かったのだと思います。
ただし、それは作品の、表現の「評価」ではありません。

(参考)『表現の不自由展』の議論は始まってもいない

禁忌のテーマに触れただけで拒絶反応が起き、作品は見られずじまい。結局、表現の微細な内容まで議論が及ぶことはない。

鑑賞者の現在の態度

美術館に企画展とか行ってキャプションも解説音声も聞かず、見て回るだけの方があまりに多く驚きます。
キャプションも解説音声も作品に対する知識や情報を得るためのものです。
キャプションも解説音声をしっかり読まない・聞かない・知らない、そのままに「能動的な解釈者」としての鑑賞者にはなれないはずです。

そんな難しいんじゃ見なくていいや〜って思う方が多いかもしれませんが
「疑問を持つ」「激しい感情を抱く」そういう作品を「見た」時が最初のきっかけになると思います。
それについて自分で咀嚼するには「知識・情報」が必要になってくるのです。
ぜひ出会う時までそれを覚えておいてほしいと思います。

「美学への招待ー増補版」のレビューに前衛アートに対する不理解が語られていました。(いま私はこちらの本読んでいる途中です。)
このレビュー自体が鑑賞する人に足りていないことをそのまま表している興味深いものです。気になった方は全文も読んでみてください。

モダンアートの先駆者としてマルセルデュシャンがニューヨーク美術展で出品したトイレの便器があります。
なんの変哲もない便器が芸術であるのかと大騒動になりました
それから一世紀経た現代ではデュシャンの「便器」は有名美術館に収蔵されていて、立派な芸術作品扱いです。
私には理解も納得もできません

今までこのnoteでの説明をちゃんと読みすすめた方にとっては
デュシャンの作品は便器がどうのという表面だけを鑑賞するのでは到底理解も納得もできないことはご理解いただけると思います。
そこにある「問題提起」、つまり「アート作品は目前にある美しい絵画」だけで良いのか?という事に考えが至らなければ、便器は便器のままである、という事です。

現在の日本では鑑賞する多くの人は、デュシャン以前のアートの受容の仕方をまだまだしているという事なのです。

「現代アートとは何か」の中で村上隆氏の言葉が載っていました。

日本のアートジャーナリズムやオーディエンスは、現代美術においては『文脈』の読解こそが最重要であることを理解していない。現代美術とサブカルを安易に結びつけてほしくない。

やはり「コンテクスト(文脈)」を読み解くことは現代アートでは当然のことなのです。
文脈としては、作品自体の文脈、美術史の中の作品の位置付けとしての文脈、作者のコンセプト(意図)としての文脈など色々あると思います。
日本のアート界では絶望的に理解されていないと思われているとも言えます。

今回、あいちトリエンナーレで問題になった作品の取り上げ方をアート側の視点から見ていると
「いかに大衆の負の感情を扇動し中止させるか」と穿って取りかねないと思いました。
「なぜそのシーンが作品に取り入れられているか」という視点に立った報道をほとんど見ません。
「やはり鑑賞側の不理解」が多くの「不自由」を生んでいるのではないか、と疑問を持たざるを得ませんでした。

御真影の件について

美しく心地よいものがアートだ!
不快なものは排除されるべき
コンテキストなんて考えない

という市場において、一部を意図的に切り抜いた見方をされ、特に「禁忌」に触れている部分だったならばそれは中止に追い込まれるだろうと思います。

昭和天皇のコラージュが登場する『遠近を抱えて』シリーズを制作した大浦氏が
その意図と作品の「コンテクスト(文脈)」をインタビューにて話していました。

そのシーンは1時間40分の映画の中ではごくわずかなのですが、今回の20分の動画にそこを含めたために、そこだけが取り出されて騒ぎになってしまいました。しかも、天皇制を批判するために燃やしたという全く誤った解釈がなされてしまったのですね。
 僕自身には天皇を批判するとか冒涜する意図は全くありません。僕自身の「内なる天皇」を従軍看護婦の女性に託して祈りを捧げるということなんです。
戦前はみなお国のために死んでいくという考え方を吹き込まれて育ったわけじゃないですか。その一人一人の内側に抱え込まれた「内なる天皇」ですよね。それを自分の中で意識した時に燃やすという行為が出てくるわけです。だから「祈り」なんですね。

つまり日本人であれば、その内側に程度の差があれど「内なる天皇」が存在し
その自分自身が「天皇という存在」をどう向き合っていくかが主題であって
実際の天皇がどうだとか、天皇制がどうだとかとは語られていないのです。

この作品に対して電話殺到した記事を照らし合わせると、少し不思議な気持ちになります。

関係者によると、初日には数百件の電話が寄せられたが、実際に対応できたのは2〜3割程度。ほとんどが60〜70代の高齢男性で、30分以上の通話だった。
「昭和天皇の写真をコラージュした作品を燃やす場面がある映像作品」などへの批判が広がるなか、そうした作品の表現手法に「傷ついた」と語っていた人もいたという。

「内なる天皇」が色濃くいるであろう「60〜70代の高齢男性」が「傷ついた」という反応は、至極真っ当な反応だと思いました。
それは前後の映像コンテキストがなくてもその一部でも、リアルな体験としてそこを補っているからこその反応です。

アートはそこから先を提起しているのです。
自分の「内なる天皇」の存在が見えた時、どう向き合っていきますか、と。
そこまで考えることが「鑑賞する」ということになるのではないでしょうか。

それが自分にとって辛いなら考えるのをやめることもできます。
辛いと感じたならその存在を「自分は」大事にすることができるのです。
でも辛いからといって、この日本人にとっての「内なる天皇」が消えるわけではないんですよね。
だからこそ「表現」されていくのです。それは誰にも消せないんです。

アート発信側の責任ー不自由は誰のせいか

アートが不自由になっている、不自由にさせられているのは
こうやって見てくると鑑賞する側に発言権が強くあり、理解がないことが原因のようにも思えてきます。
しかし本当にその原因を鑑賞する側に押し付けて良いとは思いません。

自由には責任が伴う。
それをちゃんと全うできていたと言えるでしょうか。

今回のように公共の事業として展開するのであれば、鑑賞者がアートに普段触れない一般大衆であることは十分考えるべきです。
発信する側が一般大衆のアートの受容力を信じすぎていたことはないでしょうか。

先に参考で挙げたNewsweek「『表現の不自由展』の議論は始まってもいない」の中でもこう書かれていました。

昭和天皇のコラージュが登場する『遠近を抱えて』シリーズは、(1986年の富山県立近代美術館での事件など)作品をめぐる複雑な前提知識を必要とする。メッセージ性が前面にあるというより、観客の解釈力を試すような作品だろう。

「観客の解釈力」についてはいままでに述べた通りなのです。
試した結果、中止に追い込まれ再開してもなお、批判の的となっているのです。
それが現状が語る「観客の解釈力」の実力なのです。

本来のアートが為すべき役割
アートが単に心地よいものではなくなっていること
不快なものから目を逸らさないアートの態度

「アート」の中にはこういう事があるのだと前提にしているでしょうか。
そんな大前提わざわざ言うの!?と思う方もいるかもしれません。
こういう言い方をすると、鑑賞する人からバカにされてると思う方もいるかもしれません。
でも、その大前提が広まっていないからこそ大騒動になると思うのです。

本来作品の持つコンテキストから外れた切り取り方をされ、
不快であればアートではないと批判され、
不快を見せることは許されない。

こういう態度でアートに接している人が多くいることを、発信側として意識しなければなりません。
たとえそういう態度を取る人々が「鑑賞すらしない人」であっても、
公共事業という特性の中では考えておくことが必要だと思うのです。

アートを発信する側が、持たなければならない責任とは
「アートとは何か」「アートを鑑賞する時の態度」「アートを鑑賞したら何が起きるか」こういう事をしっかり啓蒙、教育していくことなのだと思います。

なぜ、アートは表現は「不自由」になっているのか。
「鑑賞者の教育」の責任を果たしていないからなのではないでしょうか。
それはアーティストが担うものなのでしょうか。
美術界といったときに担うべき立場は誰なのでしょうか。

少なくとも、報道に関わる人間や公共事業を担う政治家は
現代アートにおける教養をもって、それを「能動的に解釈」し、作品を評価できるくらいでなければ不適切な報道と行動になっていくであろうと思います。
一つの要因として報道や政治からの「不理解」も「不自由」を押し付けてきたようにも思います。

責任の果たし方1

再開に関してキュレーターの津田氏がTVでインタビューを受けたようです。

志らくは「お子さんじゃなくても自分の親、子供にいろんな理由をつけてそれも表現だといって自分の親の写真を焼いたり踏んだりそれも芸術だと言ったらどうしますか?」と問いかけた。
これに津田氏は「それは、その作品のそもそもの力というかきちんとした文脈があってそういうことをやられているんであれば自分が不快になるかということと別に表現の自由のひとつだと思っています。自分自身が不快になるかということと、表現の自由の範囲であるかは別の問題であると思うので」と答えた
「私はそれを表現の自由だと認めたら世の中めちゃくちゃになるんじゃないですか」

つまりこのインタビューひとつ読んでみても
 本来のアートが為すべき役割
 アートが心地よいものではなくなっていること
 不快なものから目を逸らさないアートの態度
この大前提をインタビュワーである志らく氏は理解していないということが見て取れるわけです。

それに対し20分の質疑応答に対応し、それを放送したというのは
公共的に啓蒙活動の一端となっていくという意図があったと思われます。

Youtube貼り付けておきます。
メディアに積極的に出て説明しているのもそういう鑑賞者への理解を進める意図であり責任の果たし方でもあるでしょう。

責任の果たし方2

ちょっとソース見つからなくなってしまい恐縮ですが
津田氏は「表現の不自由展・その後」を開催する前に内容を公開しようと動いていたと聞きました。
これはセンシティブな内容を発表するにあたり事前に鑑賞者が過度に衝撃を受けないように、作品の意図することの解説を受けられる機会をつくるということでしょう。

また今回の再開にあたり、入場者は事前に作品解説の教育プログラムを受け、会場内はガイドが帯同すると報道されています。

作品ひとつひとつの解説をすることで、衝撃的なシーンをそれをそのまま受け取るのではなく、コンテキスト(文脈)のあるものとして受け取れます。
これは通常ならキャプションなどで補われているものです。

今回の中止を再開するにあたり「教育プログラム」と「ガイド帯同」という手厚く鑑賞者へ解説をすることでより作品の本来の受容に近づくわけです。

こちらにも書かれている通り、出展アーティストたちが自ら電話に対応するという窓口も用意されているようです。

「表現の不自由展・その後」の再開にあたり、展示を企画した側の責任は果たされていると思います。
ようやく土台ができたのです。ちゃんと作品が語られていくことを望みます。

そして、デュシャンから数えれば100年停滞しているともいえる
日本におけるアート鑑賞において意識改革のきっかけになっていくことを願うばかりです。




あーーーー本当は見に行きたいよー誰か連れて行ってくれーーー、びんぼーー

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。