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それぞれの正義…

東京オリンピック2020、コロナ禍で1年遅れとなりましたが、ついに始まりましたね。開会式当日は昼にブルーインパルスの記念飛行が自宅から見られたことあったりして、夜もそのままなんとなく開会式をTVで観ました。
とはいえ、開会式は、20時から始まって4時間…。さすがに長すぎましたね。バッハ会長の長いスピーチ(13分間)も原因のひとつかと思いますが、全体的に見ると「コロナ禍に合わせて静かに盛り上げるには?」ということに苦心したためかも、という気もしました。

それにしても、東京オリンピック2020は、エンブレムやポスターの盗作騒動から始まり、国立競技場のデザイン案の白紙撤回、組織委員会の会長辞任、統括ディレクター等の辞任・解任…など、直前までゴタゴタが続きましたね。
仮に日本的な「稟議システム」のようなもので関係者全員で承認、決裁されているものだったとしても、本来的には役職上位の方には、逃げられない責任があるはずですが、そもそも誠実な人は、その誠実さゆえにキャリア途中で失脚してしまうのが現代の日本標準とも言えるので、今回も簡単な話ではないでしょうね。
そもそも、今さら「責任を取って辞任」という話でもないでしょうし。

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ちょっと脱線しますが、「役職上位の方には、逃げられない責任があるはず」という話について簡単に共有しますね。
〇 日本では「アカウンタビリティ」という言葉が「説明責任」と理解されているが、本来的な意味からすれば、全くの「誤訳」である。
〇 責任にはそもそも「成果責任」と「遂行責任」の2種類があり、前者を英語で「accountability(アカウンタビリティ)」、後者を「responsibility(レスポンシビリティ)」と言う。
〇 成果責任(アカウンタビリティ)は、「他人に委譲できない究極的な結果責任」のことであり、遂行責任(レスポンシビリティ)は、「他人に委譲できる責任」のことを示す。

つまり、役職上位にいる人が下位の人に対して、権限委譲していたとしても、上位の人には「究極的な結果責任」があり、下位の人には「遂行における責任しかない」という考え方です。簡単に言えば、問題が起こったとき、上位の人は「知らなかった」「部下の能力が低かった」では済まないということです。後で何か言うくらいなら(不安なら)任せるべきではない(権限委譲しない)、ということですね。

そういった意味で、多額の公金を使っている以上、政府や東京都、オリンピック組織委員会の長は、国民、都民に対して、オリンピックとパラリンピック終了後の総括として、納得できるような説明をした上で究極的な結果責任を果たすべきだろうと思います。
当然、コロナ禍のような「想定外」のことによって生じたことに関しては、究極的な結果責任を負ってるとはいえ、多少の情状酌量はあっても良いとは思いますが…。

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東京オリンピック開会式当日の話に戻すと、その日は国立競技場周辺は終日カオス状態だったようですね。オリンピックミュージアム前の五輪マーク撮影、ブルーインパルスの見学、開会式の花火やドローン演出…などの「イベント」が目白押しで、千駄ヶ谷界隈の人の話によれば「超密状態だった」とか。
報道によれば、そのうえ、オリンピック中止を訴える団体までそこに参戦して、さらに密度が上がり、しかも舌戦の応酬なども起こったようです。
それぞれの方が自らの考えを正しいとする「正義」から、相手の考え方が間違っていると指摘し、そして自ら望ましい行動へと変えさせようとする…。

オリンピック憲章には、『オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。』とありますが、東京オリンピックについて言えば、相互に理解しあうというよりは、残念ながら、今のところは様々な分断につながってしまっているように感じます。

個人的には、大会ボランティアにさえもワクチンを優先的に接種できる環境が作れなかったことや、選手村の運営状況に関する報道などから考えると、現場の運営能力の低さを軽視して、リーダー層として都合の良い「1年遅れでの開催ありき」という進め方そのものに様々な問題が内包されていたのではないか?と考えたりします。(実際のところはわかりませんけど。)

ちなみに、すでに開催中の東京オリンピックに反対なのか?と問われれば、今となっては…という感じでもあります。
正直に言えば、希望者にはワクチン接種が完了してる状況が大前提だと思っていたことに加え、選手や関係者たちをバブル方式で管理することができるとしていた話も、運用レベルが雑過ぎて、すでに信用できないレベルにまで堕ちていると思いますが、それでも、コトがここまで進んでしまっている以上、この状況を止めるのは、始める前よりも数倍難しいと思います。
オリンピック中止を訴える人たちの「デモ」を非難する意図はありませんが、この状況下で強硬な対立構造を作っても、良い結果にはならないように感じています。

とはいえ、だからと言って「すべて任せて良い」とか「これまでのことは水に流してオリンピックを楽しもう」とも思ってませんし、ブルーインパルスを見るため?開会式を間近に感じるため?に人混みの中へ入ることもやむを得ない、なんてことも思いません。
人混みに行く人たちにも、その人たちなりの正当な理由、正義があるんだと思います。僕には賛成できない考えもあると思いますが、友人知人や医療関係者に迷惑を掛けないように気を付けてね、と祈るだけです。

そういった意味で言えば、すでに1年半以上経過しているのに、コロナ禍という難局を、概ね個人の活動制限だけで乗り切ろうという日本の政治の無策ぶりにはがっかりしています。
すべてを政治家や役人に責任転嫁できるものでも、すべきでもないと思いますが、例えば、こんなときこそ各省庁が結束して、日本人の叡智を集めるために、広く国民から打開策の意見を募れば良かったかも、と今さらながら思ったりします。

いずれにせよ、コロナ禍で明らかになった様々な問題は、多くの人が政治に無関心だったツケという面もあるかもしれません。
もっと言えば、組織における役職上位の人の言うことを無批判に(思考停止して)受け入れてきた歴史の問題なのかもしれません。
「自分ひとりが投票したって何も変わらないさ」
「常務が言ってるんだから仕方ないだろ」・・・といったように。

でも、こうした小さなことが積み重なった結果が、「現在」なんですよね。
会社生活で言えば、例えば、テレワークできる技術的環境や社内規則は昔からあったのに実際に運用されてこなかったり、環境問題やダイバーシティ、LGBTQも理念としてはあったものの、神棚に飾っていただけだったり…。
そう考えると、もしかすると、僕たち一人ひとりにも「他人に委譲できない究極的な結果責任」があるということなのかもしれません。

長くなりましたが、四連休最終日の今日はこの辺で。

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