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赤毛とか、テンパーとか、左利きとかに憧れる

自宅隔離4日目くらい。もはや分かってないし、どうでも良くなってきた。とにかく眠い、眠すぎる。

子どもの頃、水泳をやっていたせいで、髪が自然な茶色であった時期があった。子どもというのはそういうのを気にするわけで、同級生から「あいつ髪染めてる、いけないんだー」とか言われたのを覚えている。うるせー、ばかと当時から思っていたけど。何も変わらんな。

染めずに自然にもっとがっつり茶髪にならないものかと考えていた。さらに、ハーフの友達の髪の毛が美しい天然パーマで、私も自然な巻き毛が欲しいと願っていた。そして三つ編みをしてよく寝ていた(貧乏パーマって言うんだっけ?)

左利きにも憧れていた。ちなみにうちの母は左利きのことを「ぎっちょ」と未だに呼ぶ。差別用語を平気で使うところがマジで嫌いである。あ、脱線。左利きってカッコいい。字を書くポジションとかご飯食べる姿とか、見てるだけで好きだった。

さて何の話かって、こういう持って生まれた違いって差別になるのが不思議だなと思った。人って都合がいい生き物であり、自分を基準にしか考えない。右利きのマジョリティが良いとか正しいとか善とか、全く論理的ではない。昔の考え方の名残なんだろうけど、今の時代もそれ話します?と疑問に思う。

アメリカに住んでいた時、仲良くしていたアメリカ人の友人がアイリッシュ系で見事な赤毛だった。赤毛にそばかす。赤毛のアンよ。今でも鮮明に彼女が「I love my beautiful red hair」と話していたのを覚えてる。金に染める若者達の中で、自然な美しい赤毛の彼女が一番可愛いと思った。

自分が授かったものを自分が好きで愛することができ、周りがそれを自然に受け入れてくれたら一番幸せなんだろうなと思った。それがあんまり成り立ってないのが今の社会なのだろうけど。

自分だけを基準に考えない、かつ、社会の当たり前を基準に考えない。違うことが普通。

noteのお友達(と勝手に呼ばせていただく)が、違うから美しい、という表現をされていて、なんとも素敵なフレーズだと思った。私が海外に魅入られるのは、きっとその違いが見れるからなのだろうなと思った。

相手を尊重するとか、そういうきれいごとはあまり好きじゃない。違いが生理的に受けつけないとかあるし、どんな相手も尊重なんてそんなことは無理だ。でもその違いをもとに相手を直接的に攻撃しない、非難しない、差別しない、それくらいはできるのではと。自分や社会の一般と違うから、は理由にしたくない。

って話を、非国民発言連発の私が書いていて良いのかという疑問はさておき。

直毛すぎてパーマが全くかからない私。くるくるスパイラルパーマみたいな髪型に本気で憧れる。アフロもちょっとやってみたい。