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好きを出し惜しみしない宣言したけど

離婚して一人になってしばらくして最近になってようやく、一つ決めたというかこうしていきたいと思ったことは、物事や人に対して好きを出し惜しみしないことだった。

今までも別に出し惜しみしていたわけではないのだけど、性格的にどうしても嫌いなもの排除的な動きが優先されるため、好きなものが大事にされないというかそちらに意識が向かないことが多いのだ。ほんともうめんどくせー、なんつう性格だ。

少し前にBさんと話していて、どういう関係性を求めてるのかみたいなことを聞かれて、その答えに的外れな「好きを出し惜しみしないって決めた」と答えていた。この回答になった理由を夢の中で考えてたらしく、今日起きたらぼわっと頭に浮かんでいた。

よくわからんけど、例えば仕事でもポンコツ上司に改善を求めることや、組織の体質的な部分の変化を求めることって、やっぱり無駄なのである。アプローチを変えて物事をよくしようとはするけど、基本的に相手に求めることってまあまあ無駄なことだと思う。元夫に対しても、彼ができないこと、彼にとって難しいことを求めて求めまくっていた。ここでちょい相性が悪かったんだろうなと思うのが、彼は私の要求に応えようと言葉では言う、けども実際にはできない、だから私は毎回裏切られたような気持になる、のループ。

自分軸とか相手軸とかそういう言葉流行ってますが、それに関連するのかもしれない。が、私この流行りの表現好きじゃない。何が自分軸だ、うっさいわ、ボケと思うのであった。考え方はあってると思うけど、流行りの言葉で決めつけて括りつけないでほしい。

相手に求めるのはある程度関係性と期待があるから仕方ないとして、それ以上に私はこれがこの人が好きなのだって気持ちを抑える必要はなかったなと思った。無意識になのか意識してなのか、相手のことを変に考えて気を遣って、ここで自分の好きを言うのは違うとか、好きを抑えなければならないとか、そんな的外れな思考と行動をしていた。とんだ勘違いと今なら分かるけど、法や倫理的に問題がないのであれば、私が何かを好きなこと、誰かを好きなことを抑える必要なんてなかったのだ。法や倫理的ってのは犯罪に関わることやシンプルに不倫とかでなければってこと。

元夫の話だけでなく、人間関係一般的な話として(noteでも色々あったな)、私は相手の言動にばかり気を取られてしまい、自分が好きか嫌いかを意外と優先できていなかったのだと思う。相手の言動によって好きか嫌いが変わっていたことが多かったように思う。でもそれって矛盾を引き起こし、自分の中でいつか筋が通らなくなって、混乱が生じて、結局関係を破綻させてしまっていたのではと。もともと嫌いだった部分が濃くなるケースはもちろんあるけど、それでも自分が元々自分の中に持っていた好き嫌いの感情が相手自身や周囲によって影響されていたのだと思った。

もちろん相手へのリスペクトとか気遣いって大事なのだけど、私の好きって気持ちは無駄に抑える必要はないのだ。せめて、自分に対しては嘘をつかなくてよいのだと気づいた。アゲイン、法や倫理的に問題がない限り。

って気づいたはずなのに、Bさんにも「好きを出し惜しみしないって決めた」宣言したのに、やっぱりうまく表現できない自分がいた。昨晩Bさんと酒を飲みながら長電話した。ここ最近調子は良い方なので落ち着いてるとはいえ、会いたいやら淋しいという感情は常にある。落ち着いてるからこそ本当にそう思ってるのだとも思う。でも、5時間の電話の中で一度も言えなかった。Bさんは本人も言っていたが、淋しいと言われたら「で?だから?」という反応にしかならない。それを分かってるし、期待もしてない、何ならその反応が気楽でいいのに、それでも私は言えなかった。

長年培ってきた癖というのは本当に厄介である。気づくの第一歩は踏めたとはいえ、そこから実行の第二歩がうまく踏めない。お手本のような第二歩を踏み出せなくていいから、自分らしい不格好で不器用な第二歩目を踏み出せるように引き続きモヤモヤ過ごすしかないと思うのであった。

そういうえば前回帰国した時に、日本の物価上昇がすごすぎてビビり、大好きな日本酒をちょっと我慢したのを思い出した。こういうのってよくない。好きの出し惜しみトップ3に入ってる。次はビビビと来た日本酒を値段を気にしつつも買おうと思うのであった。小さすぎる一歩だけど。

やはり亀の歩み。