夜の海

磯姫奇譚

「月の引力で浮かんでくるのさ」
   そう言って父は、揺れる小舟の上で注意して立ちあがり、竹竿を構えた。
「だから満月の夜にはこうやって押し戻さねばならん」
 水面にぷかりと浮いてきたのは死んだ魚の腹のように白い女の顔だ。
父はその頭を竹竿で突き、海中へ押しやった。
 女の黒髪が水中でふうわりと舞い、みなもに花開くように広がった。

 海面から手だけを出し、むなしく空をかく女を眺める。私は惨い光景に背筋が震えそうになるのを抑えるため父に話しかけた。
「こいつが上がってきたら、どうなるんだい?」
「気に入りの男を一人、連れて帰る。お前みたいな若い男を。数日後に膨れて磯に打ち上げられる。」
 今度こそほんとうに背筋が震えた。

「俺は腕がしびれてきたよ。お前、代わってみろ。これは一人前と認められた男しかできないお役目なんだ。」
 私はそんな不気味なことをしたくはなかったが、これが成人した男衆の役割とあっては無下にできない。
 波になぶられる小舟の上で難儀して立ち、竹竿を掴んで女の額をおそるおそる突いた。思った以上に足元が不安定でおぼつかない。女の顔がまたぷかりと浮いてきた。
「腰が入ってないぞ」
父に言われて腰を落とし足を踏ん張った。臍の辺りに力を入れてえいやと再び浮かび上がりかけていた女を押し返す。
「いいぞ、いいぞ、その調子だ」
 父に誉められ、私は少し得意になった。恐怖心はだいぶ薄れていた。

 交互に代わりながら、父と私は東の空が白むまで女を沈め続けた。

「あの女にはかつて、親の反対で一緒になれず、心中を約束した恋人がいてな。だが、土壇場で男が怖じ気づいて、親が決めた他の女を嫁にすることを受け入れたんだと。そして捨てられたことを知った女は、絶望して一人で海に身を投げた。それ以来こうやって、満月の夜に道連れを探しに来る。憐れだが浅ましいことだよ。」
一晩かけて女を沈めたあと、父は私にそう語って聞かせた。
「男達はそれを女子供には秘密にし、各家の男が交代で満月の夜に女が陸に上がってくるのを防ぐことで、何百年も村を守ってきたんだよ。いいか、これは絶対に違えてはならないこの村の男衆の誓いだ。何があっても女を陸に上げちゃならない。」

 そうやって、私が父と共に初めて女を沈めたのが、もう50年も前になる。私はここ10年ばかしは男達だけの「秘密」に関わっていなかった。満月の夜のおぞましい「お役目」はもう息子と孫に引き継いでいたのだ。
だから「その日」が満月であるということすら忘れていた。

 「その日」は酷い嵐だった。深夜、訪ねる者があって私は起こされた。その月の「お役目」を担当していた家の家長であった。
 彼の顔は蒼白で、酷く憔悴していた。「お役目」について何かあったに違いないとすぐわかった。

 彼いわく、今日の「お役目」には彼の息子がついていた。「お役目」は常ならば少なくとも二人以上で行うことになっていたが、最近は家長である彼の体の具合が良くなく、息子はこの嵐の中で無理をさせまいと一人で「お役目」にむかったのだという。
 だが、ますます酷くなる雨風に心配になり彼が海へ様子を見に行くと、ひっくり返った小舟が浜に打ち上げられ、竹竿が波に激しくもまれていた。息子の姿は何処にもなかった。
 そして、浜に、雨風で消えかけてはいたが、何かが這いずったような跡が残り、集落へと続く舗装された道に至るまで続いていたそうだ。

 すぐに事態を村中の男達に知らせ、家々に門戸を固く閉ざし、誰が来ても朝までは絶対に外に出ないようにさせた。
 私は自宅の門に閂を、玄関や勝手口、窓という窓に鍵をかけ、さらにそれらの前に家具を置いて外から決して開けぬようにした。
 家族はひとつの部屋に集まり、身を寄せあって息を潜めた。一番年下の孫が私にすがりつき、何も解らず怯えている姿には酷く心が痛んだ。

 どれだけそうしていただろう?一刻か、二刻か、それ以上か?
長い静寂を玄関の戸を叩く音が破った。幽かではあるが、心臓が停まりそうになるほど恐ろしかった。
 誰も動けずにいると、かりかりと戸を爪でひっかく音がした。玄関の戸を開けようとしているのだと解り血の気が引いた。
 息子が竹竿の先に包丁をくくりつけた急ごしらえの槍を掴み荒い息を吐いて身構えていたが、その手は酷く震え、おぼつかない。
 そのまましばらく永久とも思える沈黙が続いたが、か細い声が戸の向こうから聞こえてきた。

「もうし...もうし...」             

 それは女の声だった。

「もうし、ここは陣五郎様のお宅でしょうか...?わたくしです、わたくしです。むつでございます。いれてくださいまし、いれてくださいまし、ここはさむうございます。ここはさむうございます。」

 何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。誰も答えられずにいると、外にいる何かはどんどんと激しく戸を打ち鳴らしはじめた。           
女子供、そして一番逞しい息子でさえも恐怖に悲鳴をあげて踞った。
 私も恐怖を感じたが、今にも破られそうな戸を凝視したまま動けなかった。

 やがて、戸を激しく打ち鳴らす音が突然止まった。
「ここに陣五郎様はいない...」
 力なく、落胆の色が滲んだ声がし、ごぼごぼというくぐもった、すすり泣きにも似た音の後、ずず...ずず...と何かが引きずられるような音が響き、遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 我々家族は、みな金縛りにあったかのようにしばらくの間動けずにいたが、空が白み出したころ、私はおそるおそる外に出た。

 昨晩の嵐が嘘のように晴れ渡る空が広がり、敷地内には何かが這った跡が残っていた。不思議なことに、門には閂がかかったままだった。

 一晩で、村人のうち29人が消えた。浜には海へと続く何十人もの足跡が残されていたが、消えた村人のものであるかはわからなかった。

 後から調べて、「陣五郎」は200年ほど前に村にいた網元の名前だとわかった。
 そして消えた村人は、陣五郎の直系の子孫や、親戚筋の者達であった。
 直系の家に居ながら、難を逃れた者が一人だけいる。数日前に嫁にきた他家の娘であった。

 あの晩、娘は、我々と同じように戸口の外から呼び掛ける声を聞いた。
 その声を聞くと、周りの者達は虚ろな目で立ち上がり、娘が止めるのも聞かず戸を開け次々と外に出ていったという。
 戸が開いた時に、娘は恐怖に踞り、半ば失神しかけながら、戸口に立つものの姿をちらと見たと言った。

 その女の肌は、生っ白く青ざめていた。黒髪は濡れ肌にはりつき、顔を殆ど隠していたという。
 そして、片方の足首に男衆が漁で使うような頑丈な縄が巻かれ、その先端には大きな岩がくくりつけられていたという。
 少なくとも、女の力では持てないほど重く大きな岩に見えたと娘は語った。

 父が、かつて私に語った女の話は真実ではなかった。
 推測でしか無いが、女が「自ら海に身を投げた」「気に入りの男を連れ帰る」は、私たち男衆が長い間事実だと思い込まされていた嘘だったのだろう。

 しかし、女の死に関わった当事者達は、200年も前に死んでいる。どんな罪が繰り広げられ、どのように隠され、ねじ曲げられたのかなど知りようが無かった。

 「陣五郎」の血に連なるもの達を連れ去り、女の気は晴れただろうか?それとも、とうの昔に死んでこの世にいない「陣五郎」を求め、女の魂は永遠にこの海を漂い、我々を苛むのだろうか?

 我々に今さら女に慈悲や許しを乞う資格などないだろう。その魂を弔い、安らかなるを祈ることしかできない。
 だが、女が再び現れるなら、またその頭を竹竿で突き、何度でも暗い海中に沈めるだろう。
 子を守るために、子の子を守るために。子々孫々まで。

〈了〉

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