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この物語はフィクションであるべきか ◆ 水曜日の湯葉136[7/10-16]

『呪術廻戦』27巻を読んでからお笑いに興味を持ち、Netflix で M-1 の過去回を見ている。あまりテレビ系の笑いに縁のない人生を送っていたが、数年分見るとある程度「型」みたいなのが見えてくる。例えばこんな感じの「何かの状況を練習する」形式。

AB: どうもー、アメリカン麦茶(コンビ名)です。
A: おかげさまでいろんなお仕事いただいていますけど、ぼく芸人のほかに、喫茶店経営ってやってみたいんですよ。
B: あーありますね、終わった芸能人が飲食店はじめるの。
(客の笑い)
A: ただ、いきなりだと不安だから、ちょっと練習したいなと思いまして。ぼくが店主やりますんで、お客さんやっていただけますか。
B: わかりました。(★)へー、ここに新しい喫茶店できたんだ。ちょっと入ってみるか。ガラガラ
A: いらっしゃいませ。何名様ですか?
B: 1人です
A: 5万名さまご案内〜
B: なんて!?
A: えっ?
B: いや、1人ですって
A: あ、後ろの方は別グループでしたか。失礼いたしました
B: 後ろの方って何!? 4万9999人いるの!?  この店そんな入る?

架空のコント台本

見ていて思うのは、これって「芸人が役割を演じています」という劇中劇の形式をとらずに(★)から始めても問題なく成立するのでは、ということ。「練習でバカなことをやってる」よりも「実際の店がバカなことをやってる」のほうが異常性が高くて面白くないかな。

この形式のメリットとしては、自己紹介と雑談から自然に話をつなげられる、役割を誤解されるリスクが少ない、などなど色々思いつく。ただ、「あくまで練習であり、嘘の話としてやってますよ」という注釈が作中で挟まると、どうも話の真剣味が薄れてしまう気がする。

似たようなことは「ゲームの世界に転生した主人公が〜」みたいな漫画でもある。転生前の設定がほとんど使われてなかったりすると、「普通にその世界で生まれ育ったほうがよくない?」と思う。「※この物語はフィクションです」という現実はなるべく忘れて作中世界に浸りたいので、主人公が「この物語はフィクションですよ」という態度で振る舞わないでほしい。


7月10日 水

Kindle Paperwhite がだんだん使えなくなってきた。昔は「サンプルを読み終わった時点で製品版を購入すると自動でサンプルが消え、製品版が読みかけの位置から読める」というスマートなUXだったのに、いつからか製品版の最初に戻されるようになり、サンプルを手動で削除しても消えなくなり、さらに最近は書籍を購入しても 400 Error が出るようになった。

もともと Amazon は局所的に異常にいい加減な部分のある企業だが、その「いい加減な部分」が自分の愛用品に回ってきた感じがして辛いところがある。
(逆に最近急によくなったのは Mac 版の Kindle アプリ。こちらはあまり使わないが)

『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』2巻が図書館においてないので、大きく飛ばして11巻を読む。ライバルキャラらしきキャラが現れており、話じたいが結構展開しているのがわかる。これはちょっと見誤ったか。ふつうに3巻にするべきだった。


7月11日 木

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