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美味しい二番煎じの淹れ方 ◆ 水曜日の湯葉87[8/2-8]

「花火大会に行きたい」と思ったことがない。花火はわりと好きだが、あれは「演出」であって「目的」ではない、という位置づけが自分の中で固まっている。舞台で使われるスモークと同じである。「誰もいない舞台でスモークを2時間見続ける大会」があると聞いたら「世の中にはすごいマニアがいるんだな」と思う。それが僕の花火大会に対する印象である。

季節の風物詩を見に行く、という感覚がそもそも肌に合わない。季節なんてものは地球の公転といっしょに勝手に来てほしい。つまり、日常生活の「ちょっとした演出」として花火大会が来るのがよい。たまたま住んでいる家の窓から見えるとか、たまたま買い物から帰る途中の直線道路で、消失点の向こうにかすかに花火が見えるとか。そういう「さりげなさ」を花火に対して僕は求めている。

隅田川とか大曲とかいった一箇所に集まってやるのではなく、あちこちの公園や河原を使って、時間もバラバラにゲリラ花火大会が行われたら楽しそうだ。もちろん商業性とか消防法とかいろいろな理由で現実的でないのだろうが、しかし花火大会も交通インフラに大混乱を引き起こしながら毎年普通にやってるわけだし、結局は慣習の力ではないかと思う。

花火と違って花見はその感覚と相性がいい。なんとなく普段から歩いている川沿いの舗装路が、一年のうちある時期だけ桜で彩られているのだ。引っ越して最初に春に見て、はじめてそれが桜並木だったと知るような、そんなさりげない彩りだ。


8月2日 水

常温常圧超伝導が話題になっている。ちょいちょい思うのだが、arXiv に載った論文で騒いでいいだろうのか。arXiv(アーカイヴ)というのは「投稿した論文が査読受けるのを待ってたら科学の進歩が遅れるので、査読通る前に公開しちゃおう」という目的で設置されているサイトなので、そこに載っているからといって内容の信頼性はまったく担保されていない。その上、超伝導といえばその産業的注目度もあって、論文捏造の出やすい分野である(ヘンドリック・シェーン事件など)。

医療関係だと「査読付き論文誌に載ったか」が「まともに話題にしていいか」のひとつのボーダーになっている。医療はうっかりすると人が死ぬ分野なので、そういう種類の慎重さは求められる。ただ「査読」って別にレビュアーが同じ結果が出るか再現確認しているわけではない。あくまで「その分野の専門家」と認められている人間が読んでコメントするだけである。結果的に、査読つき論文の内容を実際にやってみるとかなりの割合で再現できないという問題が生じてしまっている。

本来、科学における「正しさ」とは「誰でも再現できること」であって、「有名雑誌や偉い先生が太鼓判を押したこと」ではない。そういう意味では、「誰ともわからない人間が論文投稿し、興味深い結果を別の誰かが追試確認し、再現できたものが徐々に認められる」方式のほうが、科学の本来あるべき形に近い。「プレプリントサーバーがあれば論文誌はいらない」と主張する人は、おそらくそういう社会を理想としているのだろう。

とはいえ実際にそんな社会になったら、雑な実験で「世紀の大発見」を発表する人間が有利すぎる。おそらく全世界で1日1個くらいのペースで常温超電導が発見されて、「あいつは先月も発見してただろ、もう無視しろ」「おや、あの先生が常温超電導を発見するとは珍しい。確認する価値があるのでは」といった具合で研究者個人に信頼が蓄積されるシステムになり、最終的にその人が「査読者」みたいなポジションになって現在と似たような形式に落ち着くと思われる。


8月3日 木

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