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日本国民は筑波山にどのような態度で向き合うべきか

筑波山を紹介するときに毎回言われるキャッチコピーが「西の富士、東の筑波」である。富士山を紹介するときは言わない。

「標高3桁の山が富士さんとタメ張れると思うなよ」という気もするが、江戸時代の浮世絵になんとなく描かれる山というと富士山と筑波山がやたらと多く、また百人一首に詠まれている東日本の山は富士山と筑波山だけなので、あながち並ぶ資格がないともいえない。

田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ(山部赤人)
筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる(陽成院)

京都が中枢だった時代に茨城の山が認識されているのだから考えてみると大したものである。山部赤人のほうが純粋に「駿河湾から見た富士すげえ」と景色を歌っているのに比べ、陽成院は恋心のダシに筑波山を持ち出してるだけだしこの人はたぶん実際の筑波山は見てないけど、なんにせよ認識はされてるのだから大したものなのである。

877mの低山ながらこうも知名度があるのは、その立地によるものだろう。関東平野の真ん中らへんにニュッと生えているので視認範囲が広く、首都圏の丘やちょっと高いビルからでも見えてしまう。このため浮世絵にも頻繁に登場するし、江戸の住民に「山」のイメージとして富士山と並んで定着してくのも無理からぬことである。

「山」を表すピクトグラムも大体こういう「水平で雪をかぶった山」か「高さが微妙に違う2峰」だが、これはどう見ても富士山と筑波山である。「山のイメージ」としての地位をこの2座が獲得している証拠である。

こうした点から考えると、富士山が国内的にも対外的にも「日本の象徴」としての地位を獲得しているように、筑波山との向き合い方ももう一度考え直さねばならないのではないだろうか?


さて、今回の記事は僕が筑波山に登った話で、つまりいつもの旅行記なのだが、イントロをだらだら書いたのは本編に書くことがあんまりないからである。

なにしろ筑波山の標高はわずか877m。富士山の4分の1以下。しかも頂上のすぐそばまでケーブルカーやロープウェイが通っているので秋葉原から2回乗り換えるだけで山頂なのだ。なので国家的・民族的なことは考えずにボケーッと登っていいと思う。

【本日の行程・3時間くらい】
・ケーブルカー駅の近くにバイクを停める
・ケーブルカーで展望台までのぼる
・男体山・女体山に登頂
・女体山からロープウェイでおりる
・ふもとの道を歩いてケーブルカー駅まで戻る

今回はケーブルカーとロープウェイどちらも乗りたいので、片道ずつの切符セット(1220円)を買う。

ケーブルカーというのは動力を車内に持たずにケーブルで引っ張ってもらう鉄道である。そういう意味ではエレベーターに近い。山の角度にあわせて設計された車体が「ナチュラルボーン急斜面」という感じがしてたいへん良い。

路線自体は1925年からあるが、塗装もピカピカで中も綺麗だが、普通の鉄道に比べるとかなり揺れる。8分間で500メートルも登るので、肌でわかるくらい気温が下がる。気圧差に敏感な人は注意かもしれない。

ケーブルカーを降りたところに展望台がある。下はレストランになっているので筑波名物という「つくばうどん」を食べた。鶏肉と野菜がごちゃごちゃ入ってて「締めのうどんが最初から入ってる鍋」という印象だが、一人暮らしには作りづらい具材の多さなのでありがたい。歴史のどの段階で筑波名物になったのかは調べないでおこう。

一階は売店になっておりガマの油が土産物として販売されている。「さあ〜さあ〜お立ち会い」と言って刀で自分の腕に傷をつけて、そこに油を塗ると一瞬で治るパフォーマンスが有名なアレだ。宣伝のほうが有名な商品という点では銭湯のケロリンを思わせる。カエル系の医薬品として相通づるものがあるだろうか。

筑波山は山頂がふたつあり、展望台から西にあるのが男体山(871m)、東が女体山(877m)。両方登れば1748mといえる。今回は女体山からロープウェイでふもとに降りるので、まず男体山に登る。高低差はわずか70mだが水平距離が短いため、わりと本格的な登山道になっている。

男体山側にはいい感じに古びた建物がある。廃墟のようだが現役の気象観測施設らしく、1976年に完全無人化したそうだ。ということはそれ以前はグスコーブドリみたいな研究員が常駐していたのだろうか。ネットのない時代にこういうところで観測の日々を過ごすのもちょっと憧れるな。

いったん展望台まで戻り、反対側の女体山に向かう。標高はこちらの方が高いが、斜度がないので散歩感覚で登れる。きれいに晴れれば海まで見えるらしいが、この日はそこまでではなかった。(ヘッダー写真)

女体山のすぐそばからロープウェイが出ている。観覧車みたいな数人乗りの円筒を想像していたのだが、現れたのはさっき乗ったケーブルカーと大差ない大箱。定員70名(感染予防のため45名に減員中)。

ケーブルカーと違って地面に足がついていないため、鉄塔を越えるたびにぐわんぐわん揺れて怖い。しかし構造上の都合による怖さにはリアルな体験としての良さがある。遊園地の絶叫マシンのように「怖がらせてやろう」と設計された人工的怖さはあまり好きではない。

ロープウェイを降りてふもとに戻ったが、バイクはケーブルカー駅の近くに停めたので迎場コースを歩かねばならないが、歩きやすい道が整備されていて「山の散策」という感じで楽しい。

ケーブルカー駅の少し下には住宅地があるが、このあたりも平地の少ない斜面に家屋をつめこんだ街並みになかなか見応えがある。ひとの住んでる場所に「見応え」とか言い出すのはいかがなものかという気もするがとにかくある。車で来る場合は少し下の駐車所に停めて、このあたりを散歩するのもいいだろう。

ところで筑波山は日本百名山でもっとも低い山としても知られているが、「日本百名山」というのは深田久弥という文筆家が出した勝手に決めたもので、その初出は1964年と意外と新しい。江戸時代くらいからあってほしいがそうすると北海道の山が入らないので致し方ない。

わが故郷・福島県も「うつくしま百名山」と称して県内から百名山をひねり出すという無謀をやっている。選定委員長が田部井淳子(女性として世界初のエベレスト登頂者)なので権威武装はできている気はする。


筑波山の話は以上だが、どうにも尺が余るので山周辺の話をする。

筑波山のそばには日本で2番目に広い湖・霞ケ浦がある。世界的なハッカー集団アノニマスが「霞ヶ関」と間違えてサイバー攻撃を仕掛けたことで有名な湖だ。今回はバイクで来ていたため、山登りついでにこの湖をぐるっとひと回りする。

霞ケ浦の反対側から臨む筑波山。たしかに関東平野にあって筑波山はかなり広範囲から見える。富士山と並び称するのも納得、はできないまでも許容はできる。

湖畔沿いの道路に謎の横穴が空いていたが、なんとこれは古墳時代の横穴墓群らしい。埼玉県の吉見百穴に似ているが、あちらと違って全く観光化されておらず、道路に突然ヌッと出てくるのでかなりギョッとした。

このあたりで日が暮れてガソリンが足りなくなってきたが、かすみがうら市周辺のスタンドはどれも早仕舞いしてしまうため「ここでガス欠したら横穴墳墓で野営か」とかなり焦った。(僕の乗っている小型二輪は燃費はたいへん良いが、タンクが小さいため300kmごとに給油が必要になる。航続距離としてはEV以下である)

ところで実物を見るまで知らなかったのだが、僕が「霞ケ浦」と認識していたV字型の湖は霞ケ浦の西浦で、このあたりの湖を総称して霞ケ浦というらしい。「それで日本2位ってずるくね?」と思ったけど、別々しても3位のサロマ湖より広いので北海道から抗議の声などは挙がっていない。

この日の宿泊地は霞ケ浦西端にある土浦。駅構内を自転車で通れるようにしたり、分解して電車に持ち込んだ自転車を組み立てるスペースを提供したりと、かなり自転車を優遇しているようだった。確かに霞ケ浦は休日に一周するのにちょうどいい距離だ。都心からのアクセスも良いし。

あと土浦市役所の居抜き感がとてもよかった。元はイトーヨーカドーだったらしい。

翌朝は土浦から少し南の牛久大仏へ向かう。高さ120mで世界最大のブロンズ像として知られている。『進撃の巨人』の超大型巨人が60mだからそれ2人分であり、「そんだけデカいならどこからでも見えるだろうから、カーナビなしでも行けるのでは?」と思ったけどさすがに無理だった。しょせん筑波山の1/7のサイズである。


バブル時代の大仏造立ブームで全国各地に建てられたひとつで、歴史はあまりないが巨大さで頭ひとつ抜けている。ちなみに自由の女神像は93m、こないだ話題になった中国の巨大関羽像は57mである。

下から見ていると「でかいな」以外の言葉が湧いてこないので、雑念を振り払い悟りを開くにはこういうものを作るのが合理的かもしれない。エレベーターで胸のあたりまで登ることができる。造立過程の解説パネルは面白いけれど、窓が小さいので眺めはあまりよくない。筑波山に登るほうがいいと思う。

牛久大仏は庭園も含めてきちんと整備されていたが、こうしたバブル期の大仏には無計画な造立により廃墟化し、崩落の危険に直面しているものもあるらしい。有名なものが淡路島の観音像だ。

ところで「日本の大仏」といえば奈良と鎌倉だが、奈良の東大寺が聖武天皇の国家事業として造立されたのに対し、鎌倉のほうはいつ誰が作ったのかよくわかっていないらしい。となると、あれもそれほど長期的な計画性に基づいたものではなく、当時の金持ちがノリで造っちゃったのかもしれない。

ある程度でかくて頑丈なモノを作れば「モノの歴史」よりもモノ自体のほうが残るのは道理といえる。この牛久大仏も西暦3000年頃までしぶとく生き残って、当時の歴史学者に「誰がいつどういう意図でこんなものを造ったのか」と研究の的になっているかもしれない。

そしてその時代にも「西の富士、東の筑波」といささか不釣り合いな対比が続いているかもしれない。

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