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GW前に秩父に行った記憶がない

僕は小説家なので、世間的なゴールデンウィークとは縁がない。と言いたいがこれは嘘だ。世の編集さんの多くが「GW明けに原稿お願いします」と言ってくるため、GWは年間で1・2を争う繁忙期になる。このため、旅行に行くのであればむしろGWの少し前くらいに、英気を養いにいくのが望ましい。

ただ問題は、作家の職業病で旅行中も旅行記のネタ拾いをしてしまうことだ。休憩のための旅行で、そんな仕事っぽい意識を持つのは本末転倒もいいところだ。純粋に精神的な解放を求めるなら、いっそ全部忘れるつもりで旅行に行くのが望ましいのではないか?

といったことを友人の吉田に相談すると、「そういう時には便利な薬がある」とのことだった。

友人の吉田

吉田は大学院時代の同期だが、「日本のアカデミア給料が安すぎ」と言って悪の組織に就職し、記憶を消す薬の研究開発に従事していた。正義ヒーローが組織を壊滅させたため現在は無職だが、完成した薬は特許を売却したので普通に Amazon で売ってるはず、という。調べてみると1本600円なので試してみることにした。
(犯罪防止の観点からリンクは貼らない)

ちなみに Amazon では2000円以下だと送料が発生するので、仕方なく4本まとめ買いした。さっそく旅行当日の朝に1本開けて飲んでみた。モンスターエナジーを水素水で割ったような味だった。


……


……


家に帰ってきた。

吉田の言ったとおり、道中の記憶は一切残っていない。だが足には疲れが残っているし Suica の残高も減っていた。どこかに旅行に行っていたらしい。ひとまずカバンを開いて荷物を見てみよう。

裏面の値札は540円とある

なんか出てきた。「秩父漬物処」とあるので、僕は秩父に行ったらしい。少なくとも秩父以外で秩父土産を買うほど秩父を偏愛してはいない。酪王カフェオレが売ってたら福島じゃなくても買うけど。

ただ妙なのは、僕はふだん旅先で自宅用のお土産を買わないことだ。たいていは200円くらいのお菓子を買って、帰りの電車で食べてしまう。ひとり暮らしなので土産を渡す相手もいない。これを買う理由があったのだろうか? 

まだ何か入っている。

Chabacco

いやいやいや、僕は生まれて1本も吸ったことのないバキバキの非喫煙者だぞ。ばあちゃんに「煙草とギャンブルと戦争だけはいけない」と言われてそのとおりに育った孫だぞ。人生設計はだいぶギャンブル寄りだけど。というか戦争が僕の裁量で止められると思ってたのか? 孫の権力を過大評価してないか? 孫権か?

よく見たら煙草じゃなくて茶箱だった。しょうもねえ。でも僕はこういうしょうもないネタグッズのが大好きなので、見かけたら何があっても買うに違いない(消耗品なのがなお良い)。本当に旅行に行ったんだな、という実感が沸いてきた。それも西武秩父線で。

まだ何か入っている。

藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』

文庫本だ。電車の中で読むために持っていったのだろう。しおりが「おわりに」のページにはさまっているので今日読み終えたのだろうが、内容を全く覚えていない。読み損じゃん?

世の中には「記憶を消してもう一度読みたい本」というのがあるけど、これは多分そういうタイプの本ではない。どっちかというと資料用だから忘れたら意味ない系の本だ。忘れたので確証はないが。


ここでカバンの中から財布が出てくる。そうだ、何かレシートが入っているかもしれない。何もない。まじめに家計簿をつけていないので、経費になりそうにないレシートは捨ててしまうのだ。

所持金は9430円だった。1円5円の小銭がないので、神社的なところに寄って賽銭箱に投げた可能性が高い。僕は賽銭箱を小銭捨て場だと認識しているはずだ。キャッシュレス移行で小銭処理の機会が減ったので尚更。

持ち物から行程を探るのは限度があるので、普通にカメラロールを見てしまおう。写真に凝るタイプではないので旅先といっても一眼レフなどはなく、手持ちのスマートフォンでメモ的に撮るだけである。

たぶん昼飯

何だこのドンブリ。日本語学習3ヶ月目のアメリカ人が「カツ丼」という単語から推測して作った料理か。いくらなんでも野菜がなさすぎる。

カツの下にタマネギでも敷いてあるのかもしれないが、僕は「見えないところにあるタマネギ」が何よりも嫌いなので、そんなことがあったら確実に Twitter に不満を書いているはずだ。そうしたツイートは見当たらない。おそらく本当にカツだけだったのだろう。

調べてみると「わらじとんかつ丼」という秩父名物らしいが、美味かったのだろうか? 味は純粋に主観だから、記憶が消えている以上はどっちだとしても意味がない気もするが。死刑囚に最後の晩餐を選ばせる刑務所があった気がするが、これから死ぬ人間にとって味になんの意味があるんだろう。

あと気になるのは、写り込んでいる「電車で芝桜に行こうキャンペーン」という引換券だ。調べてみると、いま秩父では羊山公園で芝桜まつりをやっているそうだ。西武鉄道を使って秩父に行けばこの引換券をもらえて、500円分の買い物ができるらしい。

僕は花に詳しくないくせに花畑が好きであり、こういうのを見つけたらホイホイと行ってしまう可能性が高い。カメラロールの続きを見てみよう。

ずいぶんそっけない写真が、2枚だけ撮られていた。入場料を取られるわりにあっさりしたものである。

とはいえ、その理由もこの写真を見れば推測がつく。「平日のわりに人が多すぎるな」と思ったのだろう。僕はどれだけ楽しみにしていたイベントでも「人が多い」と認識すると急速にやる気がなくす性質がある。

そして芝桜の写真よりも多いのが、公園周辺らしき風景の写真である。おそらく人の多い芝桜を避けた結果、人のいない道路を散歩することになったのだろう。

右手の坂道がいい味だ

こういう何気ない道路が好きでカメラを取り出したのだろう。自分のことのようにわかる。自分のことだからな。


謎のバスケットゴール

バスケットゴールがぽつんと置かれている。まわりは畑ばかりでコートらしきスペースもない。はずしたら農作物に被害が及ばないか? もともとは子供がバスケをやっていた空き地を、子供が巣立った後に畑に変えたのだろうか。そういったストーリーを感じさせる風景だ。


軒下で錆びているフライス盤

唐突に現れたフライス盤(だと思う。工業機械の識別が間違ってたらゴメン)。まわりは田んぼに見えるけど、フライス盤ってそんな農地で必要になるものだっけ? 農作業で必要になった道具などをちょいちょいと作ってくれたりしたのだろうか。壁に張り付いた若葉マークもいい味を出している。


僕はわりと旅先で高齢者と仲良くなるタイプなので、地元のお年寄りにこの機械の由来を教えてもらった可能性もある。申し訳ないことをした。お年寄りからすれば話すだけで満足だったのかもしれないが、メモしておくべきだった。

実写版マインクラフトのような不自然な削れ方をしている山がある。これは確か武甲山だ。関東有数の石灰岩の採掘地で、とくにコンクリートの原料になるため第一次世界大戦後の建築ラッシュで大いに採掘されたらしい。ということを今さっきネットで調べた。おそらく現地でも調べたのであろう、検索のリンクが紫色になっていた。


あっ、なんかいい感じの店でお茶を堪能してやがる。僕も行きたい。いや僕が行ったんだけど、記憶がないので他人同然である。金だけは減ってるので損した気分。


お、例の茶箱だ。煙草にみせかけてお茶という面白コンテンツをアピールする感じのフキダシがどうにも気に食わないが、そうしなければスルーしてしまう可能性が高い。場所的にはおそらく駅の構内だろう。

あーわざわざ4000系と一緒に撮ってる。ピントあってねえ。

待てよ。茶箱が自販機で売っているということは、例の「500円引換券」はここでは使えないはずだ。いま引換券が手元に残っていないということは、これは別の用途に消化されたということになる。

しかも昼飯代の時点ではまだ引換券を持っているので、他の用途に使ったはずである。

裏面の値札は540円だった

そこで山膳にんにくか。なるほど。

道理で、ふだん買わないタイプのお土産があるわけだ。500円の商品券を消化するために、500円よりほんのちょっと高いものを探した結果がこれだったのだろう。にんにくは消化にいいしな。

結果的に9430円

あと、この時点で僕は財布に1万円札(+小銭)しか入っていなかったのだろう。茶箱の自販機はおそらく1万円札に対応していないので、商品券500円+現金40円で9960円を発声させ、600円の茶箱を買えば、残金9360円になる。実に合点の行く結果だ。秩父での僕の思考過程が目に浮かぶようだ。


というわけで「記憶を消す旅行」をやってみたが、労力を減らすための試みがかえって「記憶の復元」という労力を課すことがわかった。友人の吉田には悪いがもう二度と使わない。薬の残りは締切遅れで叱られにいく直前とかに使おうと思う。
(犯罪防止の観点からリンクは貼らない)


僕がこの「SF作家の地球旅行記」を始めたのは2019年のことだ。それ以前の旅行は、カメラロールの写真と、わずかなSNSのメモ程度しか残っていない。旅の話なんて忘れてしまうくらいがちょうどいい、と思っていた。

ただ、沖縄の首里城が僕の行った翌年に消失してしまったことで、考えを改めるようになった。形あるものはいずれ崩れていくので、みんなの記憶や記録の中に残しておいてほしい、と思う。


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