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ゴリラの死生感「苦痛のない 穴に さようなら」

私は親の仕事の影響で幼い頃から死生感が強かった。人一倍見てきた。今ロシアとウクライナの情勢が逼迫している。最近はその中で様々な映像や動画を見ており、私の中でまた1つ思い出す命があった。

それは手話を使うゴリラのココであった。1971年7月4日 から2018年6月19日46歳で亡くなった。ここで飼育していたフランシーン・パターソン博士から手話を教えられて、1000語の言葉を理解できたと言われる(一方でこの研究には論文が少ないこと、正式な手話ではなく研究者とココだけが理解できる手話だったのではないか、あるいは意味を恣意的に判断していたのではないかとの推測もある)

ある時ココが子猫の絵本を見てから子猫をおねだりし、ゴリラが他の動物をペットとして飼育できるのかと言う実験の元に実際に子猫をプレゼントされた事がある。研究者達の心配をよそに「ボール」と名付けられた子猫は、ココから沢山の愛情を注がれ愛される。しかし残念ながら車の事故によって子猫は亡くなってしまう。その事を博士がココに伝えると、ココは、悲しい、残念、LOVE、それから話したくないと伝え、背中を向けて泣いていた。私には本当に悲しんでいるようにしか見えなかった。悲しみに暮れている姿は嘘には見えなかった。

私はココの活動を応援してきた。動物達の気持ちを知りたかった。手話に関しては動物たちのボディランゲージがあるので、多少正式な手話でなかったとしても理解できるし、なによりココと研究者のパターソン博士の穏やかな表情を見せる写真は美しい。そこに真意があると信じている。

そして今亡きココが私に思い出させる言葉ーそれは研究者ムーリンがココに「いつゴリラは死ぬの?」と尋ねた時の映像だ。ココは「年とり、病気で」と答える。さらに「その時何を感じるのか?」という質問には「眠る」ゴリラは死ぬとどこに行くと伝えると?」と尋ねると、「苦痛のない穴にさようなら」(“A comfortable hole.”)と答える。

英文での記事はこちら

ゴリラは採食のために日々移動をしており、それについていけなくなったゴリラは置いてけぼりになるのかもしれない。1人で穴のような土に隠れた場所で、体力の回復を待ちながら、あるいは一方で死生感を感じ取っているのかもしれない。仲間達のそれまでの姿を見てきているから。

今の私達の姿はどうだろうか。死に対して恐れをなしているのか、一方では強制され死の恐怖さえ克服するように指示されるのだろうか。それともその姿を諦めたように既に受け入れているのか。人間は苦痛のない穴の中に入ることはできるだろうか。苦痛とも感じないうちに消え去るのか。野生という過酷な環境の中で生きている動物達にそのような穏やかな死生感が存在するというのか。

私は1人既に穴の中に入っているような気がする。私達は1つの世界しか経験できない。物理学的に時間は流れておらず、過去も現在も未来も同じ空間に存在していると言う。しかし行き来はできない。私は深い穴の中で空を見あげている。穴の中から見える夜空はきっと美しい。ココと同じように穏やかにその時を待ちたい。そしてできる事を今ただするのみなのだ。

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