フィクションへの渇望

疑い続けることこそが「客観的な自分の視点」を担保する唯一だと僕はそう思う。

僕は客観的な人間になりたいと思う。
同時に、僕は主観的な人間だと思う。

今から自分を変えたい訳では無い。それは不可能だ。
ただ只管にその評価は欲しい。めちゃくちゃ強いし、憧れる。
そう思った時、どうすれば良いかなんて簡単な話だ。
主観を疑うのだ。
自分の意見を、直観を、全てを疑って、それでもなお信じられるものだけを「意見」として口にする。
不愉快であるだとか、或いは感動するだとか、感情の振れ幅が大きい場面に直面した時、自分が真っ当な判断を出来ていると信じること程に危ういことはなかなか無い。
絶対値の大きい感情の気配を察知したら瞬時に脳から溢れる言葉を遮断する。
言語化できないイメージのまま、腹の奥に溜めて、機会が来るまで吐き出さないことを選ぶのだ。
幸いにして、僕はイメージをイメージのまま相手に伝えられるようなコミュニケーション能力に乏しい。
翻訳前のまま溜めておけばうっかり漏れ出しても伝わらないまま置いておける。これは「客観」を目指す僕にとってはとても便利な事だと思うのだ。

自分の感情を理解しやすい言語で管理せずに、全部イメージのまま溜めておくと、
自然と「理論は翻訳し易く、感情は翻訳し難い」状態になる。
これは必然の事で、それについて表す「言葉の辞書の厚さ」が圧倒的に違うからだ。

理論はいわば「理解されるべき共通認識」として用いられることが多い。話の構造として、極めて「前提が状況的でありそれに対する対処、結論の法則・原理」だと感じる。
「こういう状況に陥った時、こう対処するのが正しい。」「こういう状況は大体の場合、こういう結論に至ることが多い。」
そういったものの集合体が理論となって、多くの人間に共有されることで「理論」が完成する。

それに対して感情とは「必ずしも、誰にでも理解される必要は無い」上に、「時には抱いた感情が伝わって欲しくない人間も存在する」という特徴がある。
それはつまり言語に似ている。
人が数多の言語を産み出した切っ掛けのように「伝わらないように表現を変える」ことが文字通り幾千のコミュニティの中で行われてきた結果、言語化のフォーマットもまたその数だけ存在し、一人の人間が属するコミュニティによって表し方を変えることも珍しくはない。そもそもの話として足の早い感情というものは、人がそれを言語化しようと考えている内にその人の感覚の中で鮮度が落ちていくことも少なくはない。
本人にとってもそれを正確に紐解くのは難しい。それだけに伝わった時に価値が高まるものだ。

だからこそ、理論から生まれた「客観的」という概念を踏襲するのならば、その翻訳し難さを活かして、感情をイメージのまま感情を箱に詰め込み棚に仕舞えば良い。
判断をする時に使わなければ良いだけだ。
思考をする自分にとって、棚の上で暴れ続ける箱がいくら忌まわしく、見苦しくて捨てて仕舞いたかったとしても、その行動の要因が私情ならば取って置く。
「未熟な自分を直視したくない」だなんて、さっき箱に仕舞ったそれと何が違うって言うんだ。
答えようもない。
何も違いは無い。それ自体が「客観的」でない判断だ。
捨てても捨てても私情が出てくる。
僕の言語化能力がもっと高かったらあと5回は死んでいる。

そこまでして足掻いて尚、客観は未だ完成しない。
しかしながら僕はそれで良いと思っている。
「客観」は完成することに価値があるのではなく、他人にそうみられることに価値があると思っているからだ。
自分の中で実現しなかったとしても、実現しようと足掻く姿が他人から「客観的な人間だ」と映ることこそに価値があるからだ。

理解していても、完成しないものを追い掛けることは苦痛だ。
自分の努力や行動が報われているかも分らなければ、自信はじわじわ剥がれていくし、ゴールを見失ったまま歩いてその頂に至れると言い切れるくらいの傲りは持ち合わせていない。

であったとしても、「自分は主観的な人間だから仕方ない」と諦めをつけることは思考停止ではないだろうか?
忌み嫌って生きてきた思考停止人間と同レベルに成り下がるくらいならば、血反吐を吐いてでも客観を目指すべきではないだろうか?
例え死ぬまで完成しなかったとしても、諦めと共に生きる程度の自分では僕は到底満足などできない。
更に言うなら、「主観でしかない自分の意見を客観だと思い込んだまま生きていく」など、もっと不愉快で吐き気がする。

思い込みを殺す為に、出来ることは全てやっている。
一番分かり易いのが感情での判断の排除だ。
強いプライドのせいで、与えられた一つの肯定で突き進んで何も見えなくなるぐらいならば、
人の肯定を聞いて「嬉しい!」と感じるタイミングすらコントロールしてしまえばいい。
思考の海に浸って居る時に昂るも落ち着くも無いのだから、他人から与えられる喜怒哀楽に蓋をして
論理を展開することに集中するのだ。損得で勘定をして、出来るだけ他人の損を減らしてリスクを減らす。
リスクが減ればより自分の意見が通り易い環境になる。
成功体験を重ねることで自信が保たれる。
自信を保ち続けることで思考の精度が上がる。
思考のクオリティを保つことが出来たならば、きっと思い込みで書いた自分の意見を後から見て、
「なんだこの偏りは」と一蹴することができる。

その「後から」こそが僕の持てる唯一の「客観」だ。
基本的にはこれしか口に出さないことで僕は他者評価の「客観が出来る人間」を得ようとしている。
未完成な「客観」しか持っていないのに。

「客観が出来る人間」の理論は凶器だ。

実際完璧に自我を剥がす必要があるのではなく、そういう評価を得ている人間と言う意味で。
その人の意見を聞いて、聞き手側がまずその人を疑うのではなく、自分を疑い出すという時点であまりにも強い。
その称号を得る為に、客観を剥がさず自我を振り回す為に、発言する前、僕は自分を疑うことにしている。

自分の都合の良いように物事を運ぶために、多勢の不利益にならない選択肢を「自分にとっての正答」に置き、皆が無難に判断した時に肯定される様に仕向けている。

人が自分を肯定する。
それ自体に快不快は無くとも、発言は明確な根拠になり、支持の意志表明になり、自分がどう言おうが変わらない「事実」としてひとつ、世界に落ちる。
多数の人間に肯定された意見は自然と大衆から「客観的に見て正しい選択肢」として評価される。
そこで初めて主観の集合体に客観と言うラベルが付与される。
例えばそんな成功体験を重ねていけば、何より求めた「客観的な自分」という評価を獲得する。

「客観」とは内側にある自分を「主観」だと判じて疑い続けることで獲得できるフィクションだ。
だからこそ、葛藤しない人間に得られる筈はない。
まずそれを手に入れるスタートラインに今、ようやっと立つ資格を得たばかりだ。

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