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東京藝大映画専攻17期生修了上映会「S#17」

今年も藝大の修了上映会に行く事ができました。

以下、オチは書かないよう気を付けますが、ネタバレを含みますので、ご了承の上読んでいただければ。


『走れない人の走り方』

構成がすごく面白かったです。
最初は、なかなかうまくいかない映画監督の主人公のもどかしさを感じる「凪」の状態から入り、飼い猫が居なくなった辺りから、「この映画はここから暗黒面に落ちていくのか」と思わせるけど、この映画の監督自身が出演するシーンから、ストーリーも編集も妙な方向に行き出したかと思いきや、気付くとなぜか最初の「凪」に近い状態に戻り、劇中に「今あるものでなんとかする」というようなセリフが出てくるが、そんな映画作りではちょいちょい直面する現実を受け入れて前に進むという、なんとも感情の降り幅の大きい作品でした。

「暗黒面に落ちていくのか」と思ったところから、本当にそのまま進んで、主人公が泣いたりわめいたり叫んだり走ったりすると、インディペンデント作品では実によく目にする作品になったと思いますが、その後の妙な数シーンのおかげというと変かもしれませんが、それが不思議な軌道修正を見せるのが実に面白かったです。

それでいて、ちゃんと主人公も前に進むし、キャストも魅力的だし、面白い作品でした。

主人公の最初から最後までのバタバタしっぱなしの姿を見ると、題名がすごくしっくりきます。

あと、終わり方が「映画見たっ!」となる感じで、僕は好きでした。


『とんで火に入る夏の虫』

監督が舞台挨拶で、これは死についての映画で、でも「死」を特別なものとして描いた訳ではなく自然に誰でも訪れるものであるという事を描いた、というような事をおっしゃっていました。

以下は、この作品で監督が描きたかった事とは違うかもしれませんが、僕がこの映画を観て感じた事です。

子供が主人公で、子供ならではの大人ではうまく説明のつかない行動を取っていきますが、この「うまく説明がつかない」という感覚を、先日、祖父の一周忌に行った時、ちょっと似た感覚を覚えたのを思い出しました。

「死」はもちろん悲しいものですが、自然界に存在するものであれば、人や動物、植物でさえ、それは避けられないもので、受け入れていく事もまた必要なものでもあるかと思います。

ただ、それを言葉で簡単に「悲しい」、「でもしょうがない」みたいに説明できるかと言うと、そう簡単なものでもなくて、亡くなった事は悲しいけれど、故人との楽しかった出来事を思い返すと、ふと笑みがこぼれたり、なんとも「うまく説明がつかない」感覚になります。

それを感じさせてくれた映画でした。

個人的な話になりますが、僕は祖父母を亡くしていますが、タイミング的に、葬儀をして、一周忌をして、三回忌をして、また葬儀をして、また一周忌をして、また三回忌をしたと思ったら、七回忌をして、みたいな事が続いた時期がありました。

その経験を元に「RICE BALL」という短編映画を撮りましたが、僕がその映画で描きたかったものの一つが、「家族の死の悲は悲しいけれど、残された家族は、生きている家族が支え合って生きていく」というものでした。
これは、それが正しいとか、そうするべきだ、とかいうものではなくて、あくまで自然とそうなったらいいなというような自分の願望です。

なので、これも僕が勝手に受け取った印象なのですが、この映画の最後のセリフを聞いて、自分が描きたかったものと似たようなものを感じました。

『よく見れば星』

まず感じたのが、「闇」の使い方と、「人が無言でいる怖さ」の使い方が黒沢監督っぽいなぁと。

不気味さの加減がとても巧みです。
あの防犯カメラ視点も。

「闇」の部分で言うと、キャストそれぞれも「闇」の部分を見事に表現していて、皆さん素晴らしかったです。

この映画では、「人の成長」みたいな事よりも、どうしようもなく「人」が描き出されている印象でした。
「どうしようもない人」ではなく、どうしようもなく「人」。

いい言葉が見つけられないのですが、登場人物たちの取る行動が、どうしようもなく「人」なんです。

スタンダードサイズの画面に、時折挟まれる「引き画」のカットがとても印象的でした。

あと、超個人的に後閑くんがお芝居をしているのにニヤニヤしてしまいました。


『移動する記憶装置展』

ドキュメンタリーとフィクションが交差する構成が面白かったです。
また、ドキュメンタリーの要素があるからなのか、引き画が多く、引き画好きな自分としては好みでした。

やっぱり素の人間の「演じよう」という意識のない活きた言葉には聞き入ってしまうものがあります。
この、ただ「聞いて欲しい」、ただ「伝えたい」という言葉の持つ力、これは芝居で活きたセリフを言う際のヒントになります。

僕は、「その土地だから生まれた作品」というものが好きで、今作は、その新しい試みになる作品ではないでしょうか。

少し話は逸れますが、「横浜」という言葉を聞くと大体の人がこのイメージを思い描くのではないでしょうか。

僕も、以前横浜に住んでいた頃、「横浜に住んでます」と言うと、相手の頭上にこの絵が浮かんでいるのが見えるようでした。

でも、実際は、この映画に出てくる「上飯田町」のような所が多いです。

僕の生家は、横浜駅からバスで30分、そこから歩いて10分ほどでしたが、目の前は林だったし、周りには森もありました。

今の実家は、目の前はシャッター商店街になってしまっているし、最寄り駅の周りには畑もあります。

なので、横浜を描いた映画で、このような作品がある事も、とても貴重だと思います。

話を戻しますが、主人公の谷繁さんは、作中で「記憶」をテーマに作品作りをしていて、その展示名が「移動する記憶装置展」なのかなと思いましたが、まさに、この映画自体が、今しか撮れない「上飯田町」を記録しているようでした。

だから、普段ならNGな、キャストの目の前を通る出前のカブや、その音もそのまま使用しているし、子供たちの遊び声や、救急車の音も、そのままの「上飯田」を映し出し、残しているようでした。

ちょっと面白かったのが、なぜ様子を伺う時に片足を上げるのか。

あと、気になったのが、ラスト、あのセリフで終わるのは元々の想定なのか。

なんだか、もうちょっと会話も続きそうだし、続ける事もできただろうけど、あの終わり方も好きでした。


また、3月にユーロスペースで上映があるようなので、気になった方は是非足を運んでみてください。



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