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身近な人の死と幸せについて

 日頃、死について考えていることを、ゆるゆると書いていきます。
 今回は、身近な人の死と幸せについて。

 WIREDというウェブマガジンで、ドミニク・チェンさんの『「わたし」のウェルビーイングから、「わたしたち」のウェルビーイングへ』という記事を読みました。「ウェルビーイング」というのは、「幸福」という意味だそうです。

 記事の内容は、大まかに言うと、現代ではその人個人のなかで完結する幸福が重視されているけれど、個人を超えた、他者や世界との関わりのなかでの幸福もあり、そちらも大事なのではないか、というようなものでした。
 その中で、気になるお話がありました。最近ウェルビーイングを感じたのはどんなときかという質問をしたところ、家族の死を看取ったことが、ウェルビーイングに繋がったと答えた方が居たというお話です。故人の希望を叶える形での最期であり、看取る側にとっても理想的なお別れだったため、このように感じたそうです。

 身近な人の死というのは、多くの人にとって、とても悲しいものだと思います。以前読んだ本の中には、「あの世は素晴らしいところだから、身近な人が亡くなっても悲しむ必要はない」と書かれていることもありましたが、そのような考え方をする人は、あまり多くないのではないかと思います。

 ですが、以前、看護婦をされている方の本を読んだときにも、看取る人に癒やしを与えるような死が存在すると書かれていました。老衰によって亡くなったおばあちゃんのお話です。だから、死は悲しいものではありますが、看取る人に幸せを感じさせるような死も存在するのかもしれません。
 突然の死や、若くして亡くなったり、苦しんで亡くなったりした場合には、看取る人もやっぱり大きな悲しみを感じると思うので、看取りが幸せに繋がるような死を迎えるのはとても難しいことのように思いますが、そのような死の形も、確かに存在しているのだと思います。

 私は、身近な人の死を看取ったことがありません。だから、そのときどのような気持ちになるのかは、まだ分かりません。
 ですが、もし誰かの死を前にして、悲しむだけでなく、幸せや癒やしを感じることができたなら、それはとても素敵なことだと思います。私が死ぬときには、周りの人に少しでも幸せになって欲しいなと思います。死に方は自分では選べないので、せめて祈っておくことにします。

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