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切れやすいミサンガをつけるのもありなんだって話。

切れやすいミサンガになんて、何の意味もないと思っていた。叶いやすい願いなんて、努力も少しでよくて、そんなのに逃げたりしないとかつての私は蔑んでいた。

ミサンガというものを私が知ったのは児童書の『かいけつゾロリ』からだった。友達から流行を知るのでなく、本から知るところに当時の私の人間性が出ていると思う。ゾロリ達が毎回繰り広げるおもしろい出来事に小学生の私はひきこまれた。そのなかでミサンガが出てきた。

どのキャラだったか、「願いが叶いやすいように切れやすいミサンガを作った」と誇らしげにしていた。いつも通りちょっとお馬鹿で、それでいておもしろい彼らのことを、一瞬蔑んだ。意味ないじゃん、そんなのって。

願いなんてのは叶いにくいから意味がある。当時の私は頑なにそう信じていた。叶いにくいから意味がある、だなんて、なんて暗い子どもだったのだろう。そのせいか、あまり願いが叶った記憶がない。

私はあの日ミサンガに何を願っただろうか。ミサンガに願うまでもなく、自分で叶えると勉強に励んだのだったか。それとも、理想の両親が迎えに来てくれるという幻想をミサンガに託したのだろうか。どちらもありえそうな気がする。

勉強はすればするほど成果が返ってくるから好きだった。勉強することそのものではなく、返ってくる成果をこそ、私は愛していた。自分を満たしてくれる結果という甘い果実。もちろんその甘い果実は私の努力のもとに成り立っているのだから、おいしくないわけがなかった。

その一方で、私は正解を掴めない人間関係にいつだって苛立っていた。思い通りにならない向こうが悪いのに、怒られるのはいつも私。どうすれば正解を掴めるかの手引きも解答もない。正解が掴めないなら、私の正解の肥やしにならないなら、いらない。そう思っていろんなものを投げ捨ててきた。

それが誰であるかなんて、まったく重要じゃなかったのだ。私が優等生として認知されるための踏み台でしかない。同じ顔をしていようがしていまいがどうでもよかった。ゲームのNPCとそう変わりなかった。ゲーム、たまにしかやらないけれど。

最近になってようやく、切れやすいミサンガだっていいじゃないか、と思うようになった。心療内科に通うようになってからだ。

「大学院を受験する」

と診察の度に言う私に、主治医は言い続けた。

「まずは生活リズムを整えるところからだよ。今のことだけ見よう」

今のことだけ見たってお先真っ暗じゃないか。今のことだけやってればお金が入ってくるならそうするけど、お金を得るためには動かなきゃどうしようもないじゃんって苛々していた。

最近になってようやく、自分はまだその段階でないことに気づいたのだ。スモールステップ。まずは生活リズムを整え、どこかに通うところから。それからお金を稼ぐこと。そう、このスモールステップは切れやすいミサンガなのだ。

切れやすいミサンガを何本も切っていった先に、切れにくいミサンガが切れ、大きな目標が達成できるのではないか。

例えば、TOEICをまず受けることからはじめて、目標スコアを少しずつ上げていくとか。英語の問題集のレベルを少しずつ上げていくとか。そういう風にスモールステップを踏んで、大学院受験やその他のやりたいことに向かっていく。

執筆のための資料代にさせていただきます。