ブルーベリーと、私と親。

初めましての方も、お久しぶりな方もこんばんは。雁屋です。アルビノで毒親育ち。今回の話題に関係あるのはこの二つだ。

今日も元気に生きてますと言えたらいいんだけど、全然元気に生きてない。さっき何とか食料買いにコンビニ行ったけど、しんどさがひどかった。多分今あまり調子よくない。

調子よくないと私は机に向かってることすらできなくて、今日はほとんどベッドの上で過ごした。あの勉強もできていた日々が、一週間も経っていないのに遠い。早く回復してやれてない分の勉強もしなきゃって、焦っている。

親は毒のあるブルーベリーだったのかもしれない

さて、私を抑うつ状態にした大きな原因である私の親についての話にしよう。あまり聞いてて楽しい話ではないだろうから、そういうのが苦手な人は逃げて欲しい。責任は取れない。

私の親は、毒親である。どんな具合に毒親かというと、親子喧嘩で椅子の背は折れたし、身内は門限を守らなくて締め出されたり殴る蹴るの暴行にあったりした。それなのに、ごはんを出していたから「虐待なんてしていない」と胸を張って言っちゃう、そういう人達である。これは本気でやばい。それを見て育ったから私にも認知の歪みとかそういうものが、めちゃくちゃに残っている。過ぎた嵐では、まだない。カウンセリングがまだまだ必要だ。親元を離れて数年、それでも解けない呪いだ。

毒のあるブルーベリーって何だ、と思っただろう。ブルーベリーはタルトやレアチーズケーキ、パンケーキにのっかっている美味しいものだ。私もブルーベリーは好きだ。

でも、私にとってのブルーベリーは他の人にとってのブルーベリーとは少し違っている。

アルビノ故の弱視は現在治療法がなく、改善が見込めない。そのことに私はこの人生で結構苦悩している。そんな私は小さい頃、「目がよくなるから」と祖父母や親からブルーベリーやひじきや魚の目を多く与えられて育った。これらの食品に視力回復の効果はない。ないが彼らはこれらの食品が孫や子である私のためになると信じていたのだ。何度でも言う。効果はない。だがここに限って言うなら善意である。

ブルーベリーやひじきや魚の目はおいしかったからまあいいのだけど。本当に効くならとっくに薬になってるだろうに、という思いと効くかもわからないものにすがりたかったのかもしれないという憐れみで私の心は揺れていた。

そして今日、ふと思ったのだ。

親って、毒のあるブルーベリーみたい、と。

いい方向には効かないし毒を持っているけど、私の親は根底に善意があるタイプの毒親だった。(勿論そうじゃない人もいるし根底に何があろうと毒親は毒親だから逃げて幸せを掴むべきだ)

だが、この根底に善意があるという構図、効かないブルーベリーを必死にすすめてくる構図と何も変わらないなと思ったのだった。他に例を出すとすれば、がん患者にエセ医療をすすめる善意の人だ。エセ医療をすすめるのは罪だと私は考えている。それで人は死ぬからだ。

ブルーベリーやひじきや魚の目だけで標準治療を受けさせないなんてことになっていれば、親の行為は医療虐待だったが、定期的に病院には行っていたし、ブルーベリーなどの件については情報の少ないなか何かにすがりたかったのかもしれないと憐れんでおくことにした。

しかしこの善意ですすめられる効果のないもの達はとても厄介である。親は効果がないどころか、有害でさえあった。

今もしも、"毒のあるブルーベリー"を食べさせられている人がいたらなりふり構わず逃げて欲しい。

執筆のための資料代にさせていただきます。