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【林田と一緒に三国志(3)】魏の基盤を作った乱世の奸雄・曹操

どうも。林田です。

前回の投稿から時間が空いてしまいすみません。
今週から、また一週間に一記事を目標に投稿を続けていこうと思いますのでよろしくお願いします。

さて、今回は【林田と一緒に三国志シリーズ】の第三弾です。

張遼、呂蒙と続き、今度は蜀漢の人物か……?
と、思わせておいて、今回ご紹介する人物は魏王・曹操です。

では、レッツラゴー。

▼第一弾はこちら(張遼)

▼第二弾はこちら(呂蒙)

治世の能臣、乱世の奸雄

曹操は、養祖父が後漢王朝で絶大な権威を持つ宦官・曹騰、父が後漢王朝の太尉(大臣)・曹嵩と、名家曹家の子として生まれます。

若い頃はとにかくやんちゃ坊主で、良い評判も名声も特にないという、いわば悪ガキみたいな人物でした。

若い頃から武勇と智謀に優れており、仮病を用いて父・曹嵩を騙して信用を勝ち得たり、当時の帝の寵愛を受けた「十常侍」に属した・張譲の家にいたずらに侵入したのに家来たちに捕まらずに逃げ切ったりと、後々の大覇業に比べればちっぽけなことではありますが、曹操の武勇伝が記録に残っています。

張譲
当時の後漢王朝の帝・霊帝の寵愛を受けていた宦官(去勢して帝に忠誠を誓った官吏のこと)の集団である「十常侍」に属していた人物。
霊帝から我が母・我が父と言われるまで慕われて絶大な権力を手にして贅沢を極め、後漢王朝を荒らした。当時の大将軍・何進と敵対し、彼を殺害。その後、何進が殺されたことで蜂起した袁紹袁術慮植らの討伐軍により身を追われ、逃げきれないと悟り、最終的に入水自殺した。

そんな悪ガキ時代を経て、曹操が一躍有名になる出来事が起きます。

それは、人物鑑定家・許劭との出会いです。

「許劭に認められた人物は必ず出世する」と言われるほど評判のある人物で、曹操は許劭にこのように言われます。

「治世の能臣、乱世の奸雄」

言い換えると、「正しく治った世の中では有能な臣下となるが、 乱れた世になれば、ずる賢い英雄となるだろう」と言った意味合いになります。

この言葉は、曹操に大いに喜ばれます。

無名の男・曹操は、この評判が世に大きく知られていくことになり、後漢王朝の都・洛陽に呼ばれて役人となります。

しかし、世はどんどん乱れていき、後世に「黄巾の乱」という名で伝えられる、黄色い布を額に巻いた賊・黄巾賊による大規模反乱が起き、後漢王朝の権威は徐々に薄れていきます。

黄巾の乱が鎮圧されると、後漢王朝を乱した宦官たちが黄巾討伐軍総大将である何進を殺したことで更に世が乱れ、宦官は袁紹らに誅殺された挙句、逃げ惑う帝を保護した董卓が後漢王朝を牛耳ることになり、混乱を極めていきます。

董卓
後漢王朝で、主に涼州と呼ばれる場所の平定に力を入れていた役人。
十常侍・張譲らと共に逃げ惑っていた帝を保護したことで、後漢王朝の権威を手中に収めることに成功する。
配下の将には、天下無双の猛将・呂布や、張遼、後に曹操を苦しめることとなる参謀・賈詡など、多くの優秀な人物が揃っていた。
反董卓の機運が高まると、洛陽から長安と呼ばれる場所に都を遷都したが、最終的に呂布に裏切られて殺される。


……そう、世は乱世に突入していくのです。

曹操、挙兵

反董卓の機運が高まる中、曹操は私財を投じて、挙兵します。

この挙兵で、曹家の周りの人物が集まり、およそ千人程度の曹操軍が誕生します。

この曹操軍初期メンバーには、曹操の右腕・夏侯惇や、弓の名手・夏侯淵、曹操の従弟に当たる曹仁曹休曹洪などがいました。
しかし、この時はまだ身内が集まったような小規模な軍でした。

絶大な権力を手に酒池肉林を極める董卓討つべしと集まった反董卓連合軍の一翼として曹操軍は兵を動かしますが、一向に連合軍はまとまることが叶わず、曹操は痺れを切らせて董卓軍に攻撃を仕掛けます。

しかし、董卓軍の将・徐栄が率いる軍に惨敗し、命からがら撤退。
結局、連合軍は特に何かするわけでもなく解散。董卓による一連の動乱は、董卓配下の将・呂布の裏切りにより董卓が死亡して董卓軍が崩壊、という形で終わりを告げました。

徐栄
董卓配下の将。対曹操軍戦、対孫堅軍戦でそれぞれ功績を残した。
対曹操軍戦では、僅かな戦力ながらも徹底抗戦する曹操軍との戦で兵力を消耗することを勿体ないと判断して、無駄に戦いを延ばすわけではなく撤退するなど、優秀な判断を下している一幕がある。
董卓死後は、呂布配下として長安を守備していたが、元董卓軍の将・胡軫らの反乱により戦死した。

優秀な人物を集めながら、一大勢力になる曹操勢力

反董卓連合軍の解散後、大将軍・袁紹の指示のもと、黄巾賊の残党討伐を引き受けていた曹操軍は、大規模な黄巾残党軍の吸収に成功し、兵力の大幅な増強に成功します。

その数は、一説によると、100万人以上という大規模な数です。
さらに、この頃に各地から曹操の名声を聞きつけて曹操軍に参画する将が増えていきます(この頃に参画した有名な将の一例としては、張遼と共に合肥を守り抜いた李典や、樊城戦で呉に降った于禁などがいます)。

その後、乱世で名を轟かせていた他勢力との戦が次々と起こります。
父・曹嵩を殺害した陶謙軍、名参謀・賈詡を側近に添えて曹操に反逆した張繍軍、曹操陣営領の下ヒを奪った呂布軍、これらの軍に、曹操軍は次々と勝利を収めながら、優秀な人物を仲間に引き入れていきます。

陶謙軍との戦では、陶謙の援軍として駆けつけていた劉備らを陶謙討伐後に仲間に加え、呂布軍との戦いまで優秀な配下として用いました。
また、劉備勢力の中でも、劉備の義弟・関羽は、劉備が曹操軍を去った後も訳あって曹操軍に残り、袁紹軍との一大決戦・官渡の戦いで大きな戦功を残します。

陶謙
董卓による動乱後に勢力を築いていた軍人。
一説によると、曹操の父・曹嵩や曹操の兄弟を殺した人物とされている。
劉備らの援軍を受けながら、曹操軍と戦闘になるも、戦時中に病死。
死ぬ間際に自身の領地を劉備に託すと遺言を残したが、その劉備は後に曹操に降っている。

張繍軍との戦では、賈詡が一計を案じた奇襲作戦で、曹操の息子で後の魏帝となる曹丕の兄・曹昂、曹操の甥・曹安民、曹操の護衛役・典韋など多くの忠臣を失うことになりますが、張繍・賈詡らは曹操軍が一大勢力になると、あろうことか曹操に敵わないと悟り、降る姿勢を見せます。
曹操は優秀な人材を自身の配下にする選択を取り、過去の恨みを呑み込んで自身の軍に加入させました。

張繍
元董卓軍の将・張済の甥で、董卓軍壊滅後に勢力を築いていたが、曹操に一度降る。曹操が張済の妻(未亡人)を娶ろうとしたことから怒りを覚え、曹操に対し反逆、奇襲を仕掛けて勝利するが、曹操軍が大勢力になると、賈詡の進言に従い再び曹操に降伏した。
賈詡
董卓軍軍師。董卓死亡後は、元董卓配下の将・李傕率いる李傕軍軍師になるが、李傕が死亡すると、張繍軍の軍師になる。張繍と共に曹操に降ってからは、魏王朝時代まで数多くの献策をして、曹操・曹丕の懐刀になり、参謀として活躍する。

呂布軍との戦では、下ヒ城で籠城する呂布軍を水攻めし、呂布軍の兵らは次々と曹操軍に降伏していきます。
最後まで抗った呂布、呂布軍の軍師・陳宮、呂布軍の将・高順らは、最終的に敗北して捕らえられ、処刑されます。
その中で、呂布死亡後まで曹操軍に抗い続けるも、主君を失った張遼を(三国志演義では、呂布を裏切り、陳宮を捕縛した呂布配下の精鋭・魏続宋憲も)仲間に加えます。

こうして曹操は他勢力を次々と併呑していき、いつしか曹操に対抗し得る勢力は、華北を制した袁紹勢力のみとなっていきます。

袁紹軍との衝突は避けられないものとなり、ついに、白馬と呼ばれる地域で両軍は戦闘状態に入ります。

しかし、袁紹軍の軍師陣は曹操攻略論争が加熱してしまったことで、早くも仲間内でいざこざを起こしていきます。
最終的に短期決戦戦略を唱えた軍師・郭図の意見が採用され、持久戦を唱え続けた軍師・田豊は袁紹軍の士気低下を招くとして投獄されてしまいます。

そんな仲間内でいざこざを起こしていた袁紹軍に対し、曹操軍は筆頭軍師とされた荀攸の献策に従い、曹操軍の倍以上の戦力を誇る袁紹軍の戦力を分断させることに成功し、袁紹軍の両翼ともいえる二武将・顔良文醜の撃破に成功します。

荀攸
曹操軍の筆頭軍師。何進時代から後漢王朝に召集されていた名士で、董卓の実権掌握後に董卓暗殺計画を画策するも露見して死刑宣告され投獄された。しかし、董卓死後に出獄し、その後は曹操配下となる。
袁紹軍との戦いである「白馬・官渡の戦い」で数々の献策を曹操に与え、一説では曹操軍の10倍もの戦力があった袁紹軍を相手に曹操軍は勝利をつかんだ。

ですが、圧倒的な戦力差を誇る袁紹軍を相手に、なかなか決め手を与えることはできませんでした。
さらに、戦闘が長引いたこともあり、曹操軍の兵糧も徐々に底をつき始めていました。

曹操軍の士気も低下していた時に、袁紹軍から参謀・許攸が投降してきて、「烏巣と呼ばれる場所に兵糧の倉庫があり、そこに駐屯している袁紹配下・淳于瓊が率いる軍は少数だからそこを強襲すれば勝てるよ」と進言します。

許攸
袁紹配下の参謀。名家に生まれた人物だが、元々強欲な性格で、あまり良い評判はなかった。
袁紹がどんどんと身内を投獄したり、処刑したりと厳罰な行為を行ったために嫌気がさして曹操に降る。
袁紹軍との戦の後、「曹操軍に勝利を授けたのは自分だ」と驕りがすぎる発言を続けたことで、怒りに触れた曹操に処刑された。
淳于瓊
袁紹配下の将。何進時代は袁紹、曹操と同じ立場の人物だったが、董卓の専横が始まると後漢王朝政権から逃れて袁紹の配下となる。
袁紹軍の兵糧の守備隊長を務めたが、曹操軍の奇襲に遭い、捕らえられる。
堂々とした立ち振る舞いから曹操は配下に迎えたいと考えたが、許攸に諌められて処刑された。

許攸のこの発言に多くの曹操軍の将たちは疑問を抱きますが、荀攸と賈詡のみは、この発言を信じて、淳于瓊への奇襲を進言します。

曹操は、荀攸と賈詡の進言を採用し、自ら軍を率いて淳于瓊を攻め、兵糧庫を陥落させることに成功します。

袁紹軍は曹操軍の奇襲に大慌てします。
この事態に、郭図は「この隙に曹操軍本陣を叩けば、曹操は撤退せざるを得なくなる。こちらも曹操軍本陣に奇襲をかけるべきです」と袁紹に進言します。
しかし、この郭図の進言に反対する人がいました。

その人は、袁紹配下の将・張郃でした。
張郃は、「曹操軍本陣は堅固に守られていてそう簡単に落とせない。淳于瓊の救援に向かうべきです」と袁紹に進言します。

張郃
袁紹配下の将。田豊らと共に、持久戦を袁紹に進言していたが、聞き入れられなかった。
曹操軍本陣の攻撃作戦で敗走し、主君である袁紹に呆れ、同じく袁紹配下の将・高覧と共に曹操に降る。
曹操に降ってから数々の戦線で戦い抜き、魏王朝時代になっても、二代皇帝・曹叡の時代まで曹魏の将として戦場を駆け抜けた。
蜀漢の諸葛亮が北伐(魏王朝への征伐のこと)を始めてから、蜀漢軍との攻防戦を何度も繰り広げるも、蜀漢軍の攻撃で祁山という場所で戦死した。

ここで二つの意見に分かれた袁紹軍ですが、袁紹は愚策に出てしまいます。
なんと袁紹は、両方の意見を採用してしまった上に、郭図に淳于瓊救援軍の指揮を、張郃に曹操本陣襲撃軍の指揮を委ねるという、互いに進言した内容と反対の作戦の指揮官に任命してしまうのです。

このあんまりな人員配置と袁紹の優柔不断な判断が相まって、淳于瓊は死亡し兵糧を失い、張郃高覧も曹操に降るという最悪な状況に陥り、袁紹軍は敗走、曹操軍は勝利を収めました。

この戦から数年後、袁紹は病死し、袁紹勢力は内部分裂、曹操軍は袁紹勢力の残党を討伐し、ついに後漢王朝内で圧倒的最大勢力に上り詰めました。

袁紹軍との戦いの直前に後漢王朝の帝は曹操に保護されていたこともあり、名実ともに後漢王朝で最大の勢力となるのです。

魏の基盤を作る

陶謙、呂布、袁紹などの勢力を併呑し、最大勢力となった曹操勢力は、そのまま南下して荊州と呼ばれる場所を攻めようとします。

しかし、そこで荊州で独立勢力を築いていた劉表が病死し、息子の劉琮が勢力を継ぎ、そのまま曹操に降伏します。

劉表
荊州で独立勢力を築いていた学者。反董卓連合にも参加していたが、特に何もしていない。
曹操が勢力を拡大させると、張繍と同盟を組み曹操を攻めたが、敗北している。
配下には曹操軍に降った後に「赤壁の戦い」で水軍を率いることになる将・蔡瑁文聘、孫堅勢力と長く抗争を続けた黄祖などがいる。
また、袁紹勢力分裂後に劉備勢力を客将として迎えていた。
曹操軍が荊州に進軍したとほぼ同時期に病死し、息子次男の劉琮が家督を継いだ。
劉表の死後、息子長男の劉琦は劉備勢力に加わるが、劉備勢力は荊州からの脱出を余儀なくされた(この荊州脱出については「長板の戦い」として有名)。

曹操軍の軍勢は更に膨れ上がり、曹操軍の進軍劇は止まりません。

しかし、荊州掌握の直後に起きた、孫権劉備勢力の連合軍との戦いである「赤壁の戦い」で大敗北を喫してしまいます。

この大敗北で曹操勢力は荊州を孫権・劉備勢力に奪われてしまい、今に伝わる三国志の地図の魏と似たような中国大陸北部を主に支配下に置くことになります。

しかし、曹操はこの程度で止まる男ではありません。

曹操は西に勢力を広げるべく進軍し、漢中という場所を支配していた張魯を討伐するために軍を進めます。

張魯
五斗米道と呼ばれる宗教組織の指導者。中国大陸の西に位置する漢中という場所を勢力下にしていた。
曹操軍の侵攻に耐えきれず、降伏しようとするも、部下の諌めもあり降伏をなかなかしなかった。
曹操に状況を見極める判断能力を買われて、最終的に曹操から帰順するように求められ、家族や配下たちと一緒に降伏した。
この時の配下に、曹魏への忠節を貫いて敵将・関羽の降伏を拒み、樊城で戦死した龐徳などがいた。

しかし、この曹操軍の動きを、自分たちの地を侵されると勘違いした馬超をはじめとした涼州の豪族たちが連合軍を編成して曹操軍を迎撃します。

馬超
涼州と呼ばれる地域の軍事総督をしていた将で、独立勢力を築いていた。
元々は曹操の配下に近い立ち位置で、曹操軍と袁紹軍残党の戦いでは曹操配下の鍾繇の要請で曹操軍に与して袁紹軍残党と戦った経験もある。しかし、曹操の漢中進撃時に自分たちが攻められると勘違いしたことで同郷の将・韓遂らと連合を結成し曹操に敵対。
一度、曹操軍参謀・賈詡の策で涼州の連合は瓦解し、涼州は曹操勢力となるが、再び反曹操の連合勢力を築き、涼州奪還を試みるも失敗。配下の龐徳らと張魯の元へ逃げ、張魯配下となる。
最終的に、馬超は漢中の近くで戦闘中だった劉備に降伏を申し出、劉備軍の将として重用される。

曹操は参謀・賈詡の策略に従い、馬超筆頭の涼州連合軍を退けることに成功します。
また、この時に涼州連合軍に与していた軍閥の一部を勢力下に取り込むことも成功し、涼州の地を手にしました。

その後、本来の目的であった漢中掌握のために張魯を攻め、張魯軍を討伐します。しかし、張魯は元々曹操に降伏すべきだったという考えだったので、守備の要であった陽平関が陥落したと聞いて、すぐに曹操に投降しました。

曹操はこの張魯の判断に感心したことで張魯を配下の将として重用します。

漢中を制覇した曹操は、中国大陸北部を勢力下に治めることに成功します。
この時に、曹操は帝から魏王に任じられます。

こうして、曹操は後の魏王朝の礎となる、魏の地を手中に治めたのです。

曹操の死、そして魏王朝成立

帝による魏王任命後も、中国大陸南東部を治める孫権勢力、中国大陸南西部を治める劉備勢力との戦は続きます。

特に漢中においては、せっかく張魯を味方に引き込んで領地にしたのに、劉備軍との戦で敗走し、劉備勢力に奪われてしまいます。

曹・孫・劉の三勢力が中国大陸を三分すると、曹操はついに病に倒れます。

そして曹操は病に勝つことはできず、65歳でこの世を去ります。

曹操死後、曹操の子・曹丕は魏王に即位し、直後、帝から帝位を簒奪したことで魏の初代皇帝となり、ついに後漢王朝は滅びます。

曹操はまさに、「乱世の奸雄」として数多くの勢力を併呑し、勢力を広げ、魏王朝の礎を築き、歴史に名を刻んだのでした。

兵法家としての曹操

また、曹操は兵法家としても非常に優秀で、孫子兵法を分かりやすい書物になるように編纂して兵法書として他の将に配っていたと伝えられています。

曹操は自分が天下を手中に治めるために、兵法を学び、更にそれを兵法書としてまとめ上げ、配下の将の教養のために配り、「兵の」だけではなく「兵の」でも軍の増強を図りました。

今、世界で読まれている孫子兵法は、この曹操が編纂したものが流通しており、『魏武注孫子』として後世に伝えられています。

曹操から学ぶ、今にも通ずること

だいぶ長くなってしまいましたが、ここまで曹操について説明してきました。
皆さんはこの曹操という人物についてどう思いましたか?

僕は「理想的なトップ」だと思います。

トップ自ら兵法を学び、優秀な臣下を集め、教育を施して、組織としてまとめ上げた手腕は、今の組織づくりでも大事なことだと思います。
今風に言い換えれば、トップ自ら仕事を学び、優秀な部下を集め、教育を施してまとめ上げる。って感じでしょうか。

曹操は三国志演義では悪逆の将軍のような立ち位置で描かれて、とにかく残忍な人物といった感じですが、しっかり正史を振り返ると、確かに子供の頃はやんちゃ坊主で悪ガキな感じではありますが、大人になった曹操は乱世を制するために多くを学び、その学びを自身の勢力拡大に応用し、なるべくして後漢王朝の中で一大勢力になった豪傑だということが分かります。

僕も曹操のように、自ら学び、それを自身の事業に応用し、その知見を教育(共有)出来るようになりたいものです。

意外と、学ぶのって、大人になったら大変なものですからね。
ですが、クリエイティヴな世界では常に新しいこと、ユーザーに満足してもらえることを学び続けなければ、時代に残されてしまいますからね。
学ぶことは大事だと思います。そして、それを実行することもです。


今後も僕が今の時代でも通ずる功績や事績を残した三国志の人物を紹介できればと思いますので、三国志が好きな方やこのような歴史の事柄を現代に転化した内容の記事に興味を持った方は、是非フォローしてみてください!(Youtubeでよくある「チャンネル登録とグッドボタンよろしくお願いします!」みたいなノリ)

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