著述と文体 #002

 ショーペンハウエル論文集(佐久間政一訳)より

 庸劣なる著述家の大多数は、今日印刷されたるものより外には、何物も読みたがらざる――即ちジャーナリスト以外のものは、何物も読みたがらざる――公衆の愚昧によつて、生きてゐるのである。――ジャーナリストとは、いみじくも名づけたるものかな! 独逸語に訳すと、「日傭取り」となるであらう。

 二

 更にまた、世には三通りの著述家があるといひ得る。第一には考へないで書く著作者がある。彼等は記憶から、追憶から、または一歩進んで、直接に他人の書物から取つて来て書く。この階級は最も人数の多い階級である。――第二には書きながら考へる著述家がある。彼等は書くために考へるのである。これらの人々も甚だ屡々存在する。――第三には、記述に取りかかる前に、思考し終れる著述家たちがある。彼等は考へ終つたから、単にこの故にのみ書くのである。かかる人々は稀有である。

 書き下すまで、思考を延期する第二種の著述家は、僥倖をあてにして出かける猟師にも、比べつべきものである。この人が甚だ多くの獲物を家に持ち帰る事は、むづかしからう。之に反して第三の――稀れなる種類の著述家の書き方は、狩り立て猟にも比べられる。この猟の為には、野獣はあらかじめ捕へられて、檻へ詰め込まれる。これは後になつて野獣どもが、かうした収容所のなかから、同様に檻で囲まれた・別の場所へと、群をなして流れ出るためで、この場所へ来ると、野獣たちは猟師から免れることができず、猟師の方ではただ、叙述の狙ひと射撃とをすればよいのであつて、これこそ儲けある狩猟である(思想は常に熟してゐるから、これをうまく叙述すれば、それでよい、それで立派な著述になるのであるの義。―訳者註)。――

 さて然し、本当に・真剣に・そして予め考へる著述家の僅かな数のうちですらも、事物そのものに就て考へる人は、ほんの僅かしかない。他の人々はただ、書物に就て、――即ち他人によつて既にいはれたることに就て、――考へて見るだけなのである。といふのは、彼等が考へるためには、彼等は与へられたる・他人の思想によつて、より細かい・より強い刺戟を受ける事が、必要だからである。これらの思想が、今や彼等の一番手近な問題となるのであつて、それ故に彼等はいつも、この思想の影響のもとに止まつてゐる。従つて決して真の独創性が獲られないのである。これに反して、前にあげた人たちは、事物そのものによつて、考へるやうに刺戟される。それだから、彼等の思考は、直接に事物に向けられてゐる。永く残り、そして不死になる人々は、ただかうした人たちの間に於てのみ見出される。――但し、ここで云つてるのは、高級の部類のことであつて、ブランディ蒸留法に就て書く著述家たちのことでないのは、勿論である。

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