5月14日 日記
新歓も無事終わり、後は2回目の登録会を待つだけとなった。昨日の大トリMCで何を話したか半分忘れたけど、多分それらしいことを言った気がするし、打ち上げでも、思い出したくない後半を除いて少なからずそれらしいことを話したと思う。
そんな濃密な日々を過ごした後の休日は、案の定全てが億劫になった。起きて朝食を食わずに映画を見て、課題もやらずに野球中継を見て。この時点ですでに5時である。
実家での日曜の夕方5時といえば、夕食を温め直すレンジの音が忙しなく聞こえ始め、妹が階段を駆け降りて行く振動、やたらと高いおばあちゃんからの呼び声とそれを上回る僕の返事など、とにかく家全体が騒がしくなる時間帯だった。
それが今は、野球中継を消したことによって一切の音がなくなってしまうほど、静かなものになってしまった。
家族団欒という言葉のイメージは、大抵食卓を囲んでいる光景だったりすると思う。でも、その光景までに至るまでの行動、とりわけそれに付随する音の方が、僕にとっての家族団欒だったのかもしれない。イヤイヤ降りた階段の軋む音とかもその類だったと思う。
で、なんとかこの空白感を埋めるために料理を作ろうと、スーパーに買い出しに行った。なんとなく豚汁が食べたくなり、バラ肉、じゃがいも、にんじん、名前のわからないきのこを買った。
ここで問題になるのは、今日の料理に使う分以外の使い道を考えなければいけないことだ。
自炊のハードルの高さは、料理の手間より料理を作り続けなければいけないことに起因すると思う。作るのが億劫な日や予定で帰るのが遅くなる日でも、食材たちは腐ることを待ってはくれない。多少なんとかなるだろと思って放置した結果がお馴染みの黒く溶けたもやしである。
一人暮らしでしっかりと自炊を続けている人には本当に頭があがらない。実家では毎回イオンの火曜市でマイバックのカゴを埋め尽くして買ってきていた。
家族の人数分作るのだから当然といえば当然だが、これほどの食材を腐らせずに管理していることの凄さにようやく気づけた。今の僕にとっての料理は、自分のだらしなさから生まれている空白を埋めるための道具でしかない。
作った豚汁は見た目こそ実家のものと変わりなかったが、味は大きく違かった。この差を埋めるにはまだ時間がかかると思う。
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