2020年5月13日(水)

「#検察庁法改正案に抗議します」

ご存じ、検事総長や検事長らの定年延長を可能にする検察庁法改正案に対し、最近盛り上がっていたハッシュタグである。
今日、塾の先生とこの話題について話していると、「(大阪府の)吉村知事はこの抗議について好意的に捉えているが、改正案自体は筋が通っているという趣旨を述べていた」ということを聞いた。

それはどういうことだろう、と思って行き当たったのがこの記事である。

要約すると、
・著名人を含む、多くの人がこの議論に参与していることは、民主国家として正しい姿だ
・しかし、ただ反対するのではなく、誰が(検察総長の)人事を決めるべきなのかについても考えてほしい
・その点で言えば、検察組織の権力をコントロールするために、内閣が人事権をもつのはある意味正しいことだと言える

ということだ。
この検察組織の権力をコントロールする、という考え方は一度も考えたことがなかった。

東洋経済オンラインの「「検察庁法改正案」今さら聞けない大論争の要点」にはその権力の取り扱いについて詳しく書かれている。

当然ながら、権力は暴走する。それは検察権も例外ではない。国民を刑事訴追することができる強大な権利が暴走すること、その恐ろしさは想像に難くない。民主的に選ばれていない検察官が恣意的に国民を刑事訴追していくというストーリーも法は想定しなければならない。ここに、民主的に選ばれた人間(内閣)による監視・牽制(いわゆる「シビリアン・コントロール」)関係を構築することは、歴史が学んできた解決策なのだ。

今回の法改正は、まさに内閣と検察がどのような牽制関係を維持すべきなのか、適切なシビリアン・コントロールをいかに実現するのか、という憲法論にも発展し得る論点を、人事権という側面から問うものである。「介入すべきである」「介入すべきでない」という、0か1の議論ではなく、どのような要件で、範囲で権利行使をお互いに認めれば、バランスの取れた刑事行政が可能なのかを考える、グラデーションのある問いなのだ。決してそこに一義的な「正解」はない。(一部抜粋)


つまり私たちは刑事訴追される立場である、ということをずいぶんと遠くに感じているのだろう(当たり前だが)。だからこそ、今回の検察庁法改正案の議題は、安倍首相のオトモダチを検察総長に仕立てようとしているのではないか?という側面ばかり注目しているのだ。

私もこの考え方を知る以前は「また安倍政権の職権濫用か」と思っていたが、今は何が正しいのか分からなくなってしまった。

この改正案はおそらく可決されるのではないか、と考えている。
しかし、今はもう少しコロナウイルスに関する緊急事態宣言や経済対策について努力してもらいたいものである。