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徒然草 わたしと叔母

彼とわたしの叔母が、同じ時間を過ごすことが決まった。代官山。金曜20時。
偶然、叔母が出張で東京に来るとのことで、数週間前に決まったその予定は、これまでの私を脱皮するような、そんな感覚があった(これはまた別の話で書こうかな)。

会うことが決まってからというものの、叔母のことを思い返すことが多くなった。紹介する彼のことを差し置いて。

やわらかいけど芯のある叔母が大好きだ。
お母さんのことを「お姉ちゃん」と呼ぶ叔母が好きだ。
色んな人と人生を楽しむ方法を知ってる叔母が好きだ。
あえて自分の答えを強いてくることがない叔母が好きだ。

ただ、叔母との具体的な思い出を思い出せない。例えばどこかに行ったこととか、何かを一緒にしたとか、あまり思い出せない。
何故だろうか、思い出はない(ことはないだろうけど思い出せない)のに、叔母が良き人間でありこんなところが素敵だと、胸を張って紹介はできてしまうのだ。

人を知るのに、これまで”時間の共有”が多ければ多いほど良い、と思っていた。量が質を作るもの、の部類だと。

だけど、それは違うようだ。彼とも正直たくさん思い出を共有しているわけではないのに、彼にはこんなところがある、きっとこう思うんじゃないか、と想像することはできる(勿論よくハズレもする)。
近所で飲む友達にも感じることがある。2-3時間一緒に飲むだけで、何を経験してきて何を想っているのか何を企んでいるのか(わたしの隣の女性が好きなんだなぁなど)想像ができてしまう。

叔母の話に戻る。叔母の好きなところを思い返してた中、彼から「叔母ってどんな人?」と聞かれ、「わたしと似ている」とほぼ反射的に答えていた。

あ、そうなんだ、言葉が遅れて脳にやって来て理解できた。
自分は彼女と似ている部分が多いと感じていたのか。
それだと、これまでの話は少し恥ずかしくなる。

先の例を一つとれば、
「叔母は多くを語らないところが好き、
 つまり、私も自分の多く語らないところが好き。」

「つまり以下」の言葉を自分は意識してしまっていたのではないか。似ていると思いたい、と潜在的に考えていたのではないか。叔母の姿を通して自分を肯定したかったのだろうか。であれば、とても我儘で卑怯ではないか。


実際、3人でご飯を食べた。代官山、金曜20時。ワイワイとご飯を食べ進めて、叔母が言った。

「なんか、この3人似ているね。」

あぁ、なんだ、シンプルに似てただけみたいだ。
考えすぎてしまった私を救ったのは、私に似た叔母だった。(つまり、叔母もそう思われたいのか?)

書いてて何が言いたいのかわからなくなった。

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