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「主観的判断」とは僕らにとって悪友である

Aさん「徳田さんって、しっかり楽しんで休んでいるイメージがあって羨ましい」
Bさん「徳田さんって、全然休んでないイメージ。もっと休んだ方がいいよ!」

ほぼ同時期に、異なるコミュニティでこんなことを言われたことがあった。同時期に全然違う意見をもらって、しかも「もっとこうした方が良い」というアドバイスまでもらってしまったものだから、Bさんに言われた時なんかはおそらく
( ゚д゚)
こんな顔をしていたはずだ。

僕はこの体験を、「主観的に判断された体験」だったと整理した。
主観的な判断は、当事者に安心を生むし、同時に危うさも生む。
それはなんだか、一緒にいるとホッとするような、だけど突然危険なことに巻き込んでくる、そんな悪友のような存在のように感じられる。

客観的事実(休む頻度や休日の過ごし方)は変わらない中、人によって意見が変わるのは何故なのか。そして、主観が僕にもたらすものは安心なのか危うさなのか。
今回は、主観での判断について考えてみたいと思う。

主観的基準でのジャッジ

何故冒頭のやり取りを主観的判断だと認識したかというと、AさんもBさんも「自分よりも休んでいるか」を基準にして、「徳田の休み方」を主観的にジャッジし、発言をしているのだと考えることができるからだ。つまり、以下のように捕捉できる。

Aさん「徳田さんって、(私と比べると)しっかり楽しんで休んでいるイメージがあって羨ましい」
Bさん「徳田さんって、(私と比べると)全然休んでないイメージ。もっと休んだ方がいいよ!」

このような主観的判断についての心理的概念は「投影」や「投影同一視」「認知バイアス」など、数多く存在する。本人の背景は定かでないが、AさんもBさんも、休み方についてなんらかの気持ちや悩み、葛藤を持っていたことが想像され、そんな中で僕の休み方が自分とは異なるものだと感じ、言及をしてきたのだと考えられる。

人間は新しいものが苦手で、慣れ親しんだものが好き

人は異物が苦手で、元来受け入れるのに時間を要する性質がある。これまで培ってきた世界観や概念とは違う性質の異物を受け入れることに時間を要するのだ。

だから、前から気になっていたおしゃれなカフェに入るときは少し背筋が伸びたりするし、初めましての時はたくさん緊張をしたりする。

異物が混入してきたとき、人は、自分が知っている概念に頑張って変換をして気持ちを落ち着かせようとする。なんとか自分の慣れた世界観に引き込もうとする。そうすると、上記のような心理的現象がみられる。

主観での判断は、自分の世界観への変換

このことから考えると、冒頭のAさんとBさんは、自分、あるいは周囲の人間とは違った休み方(異物)を僕がしていたので、「羨ましいわぁ」とか「もっと休んだ方がいい」と主張することにより、少しでも自分の概念に近づけて、自分の世界観に変換しようとしていたのではないだろうか。飛び込んできた異物を自分なりに消化するために、頑張って変換していたのではないだろうか。こう考えていくと、同時期に真逆の意見を言われた背景が浮き彫りになる。

主観での判断が孕む危うさ

仮に今回の件で、僕が「ぼ、ぼかぁ自分の休み方に自信を持っているんダァ!」と、休み方についてレッテルを貼られたような感覚を抱いたとしたら(実際は全然抱いていないよ)、なんだか人間関係において軋轢を生むような感じになってくる。
この感覚は「こうであるべき」という、額縁に押し込まれたような感覚に近いのではないか。
話がぐんぐん広がってしまうので多くは語らないが、この感覚は、人種や性的差別を含む、多様性への排除にも通じるものだと思っている。それくらいの危うさとなり得る。水面に落ちた枯葉が作り出す波紋のように、危うさが広がる。

円環的に居続けるため

同じことを繰り返すことは、円環的だ。僕たちの毎日は円環的に営まれており、それが社会を構造化している。だがその社会という円環は、僕たちが気がつかない範囲で毎日少しずつずれていくし、変化もしていく。

円環的な時間軸にい続けるために、僕たちは主観での判断を無意識に使う。そして、主観での判断は、僕たちに安心感をもたらすと同時に、危うさももたらす。

僕たちを助けたり、危険な目に合わせてきたりするものが主観での判断であることを、僕たちは覚えておく必要があるし、常に問い続ける必要があるのではないだろうか。

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このnoteは、cotree advent note 21日目です。
https://note.mu/kaz_hirayama/m/m7af22fc58495

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