日記2023年12月①
昨日博士論文を提出した。ずっと大変だったので日記を書く暇がなかった。自分がこんなにがんばれるとは思わなかった。去年の今頃は休学中で、博論を出すのは自分には無理だと確信していた。しかしまあ今やってみたらできた。不思議なものである。私はかれこれ5年くらいがんばりかたを忘れていたみたいで、実際色々なものを失ったのだが、いつのまにかまたできるようになっていて、それはあらためてがんばる機会を迎えて初めてわかるみたいである。
博論を提出できたのでよほどのことがない限りは卒業できそうなのだが、まだ学位審査の発表会が残っている。よその教室の教授3人の前で発表しないといけない。来週の頭に早くもその発表会に向けた身内での予演会があるので今はそのスライドを作らなければならず、予演が終わっても本番まで内容をブラッシュアップするので、1月の半ばまで作業が途切れない。
とはいえ昨日の提出を終えてだいぶ気が抜けた。前々から決めていたとおり今日はマッサージに行った。首がガチガチだと言われた。施術の人に他に気になる部位はありますかと事前に訊かれて、特にないですと言った直後にそういえば右の腰が重いなと思ったけれど言わずにいたら、施術の人が右の腰を触り始めたときにうわすごい固まってますねと言ったので、私も施術の人も私の体のことがよくわかっているんだなと感心した。内側から感じている私と外から触っている施術者の間に身体がある。
今朝子供がほんの少しお腹を下していて、めずらしく登園をごねたので確かに調子が悪いのだろうなと親も思って、念の為早めに迎えに行った。幼稚園でも一回下痢っぽいものが出たらしい。でも家に帰ったらもりもりお菓子を食べていて元気そうだった。
子供は最近幼稚園でやっているサッカー教室に通いはじめた。私はサッカーが好きだが、その影響はほぼなく、猛烈に好きな体操の先生が担当しているのがサッカー教室だったからという理由で始めた。うちの子はすごい真剣な顔で言われたことをやって先生に褒められようとしているが、同時に周りの子のことも気になるみたいで、自由に遊びはじめるタイプの子たちがいるとつられて同じように遊びはじめてしまう。それがなんか周りに気を遣っているようにも見えるしそうすることで先生の注意を引いているようにも見えて、切なく、それも含めてなんだか私の子供の頃の心性に似ているような気がして今後の人生の苦労が偲ばれてさらに切ない。子供を他人と思うことは難しい。
幼稚園で獅子舞をやったらしい。ダンボール製の「ししまいくん」というオリキャラだそうだ。獅子舞といえばお正月のイメージだけどめでたい場にはいつでも乱入していいと思うので12月でもオッケーである。うちの子はししまいくんの登場からずっと顔をこわばらせて、頭をパクッとやられたあとに泣いたらしい。私も小さい頃は獅子舞が怖かった。かじってくるし。
午後はスライドを作るかと思いきやずっと日記を書いていた。でも全部お蔵入りにした。うつ病について考えていたのだがうまくまとまらなかった。それは来年に持ち越すことにする。
昨夜は博士論文提出後初めての夜だったけれど、あまり変わらずよく寝た。この2週間はヤケクソで買った新潮文庫の芥川龍之介と岩波新書の大江健三郎の『親密な手紙』を読んでだいぶ救われた。芥川もまた漱石と同じように人間の心のわからなさについて苦悩したのだろうと思うが、漱石が堂々巡りを逍遥したのに対して、芥川は問いに対して常に二律背反の答えを出し、その間の絶えざる反転に苦しんだように感じる。そして芥川にとってそれを終わらせるのはなんらかの悲壮な決断なのである。
と書いて思い出したのだが、そういえば私が小説を苦手だと思ったきっかけが漱石の『吾輩は猫である』で、猫好きだしという理由で選んで全然読めなかったのだが、その後初めて小説を読めて嬉しいと思ったのが芥川の「芋粥」で、これも食べ物好きだしという理由で選んだ。漱石を読んで俺はもうダメだと思い切って小説から距離をとるあたりが芥川の葛藤に対する態度に似ているような気もする。
大江健三郎『親密な手紙』の「愛をとりあげられない」で、井上ひさしがデビュー直後の大江を評したノートを後に夫人から贈られたことを書いている。井上ひさし曰く「大江氏がいままで描いて来たあらゆる情景のなかに決して愛というものがなかった」「私は大江氏が長篇ですぐれたものを書くことはできないのではないかと危惧する。長篇では愛を描くほかは何ものをも描けないから。つまるところ大江氏は短篇作家である」。
ちょうどこれと芥川を並行して読んでいたので、ああ、芥川龍之介は短篇作家なのだなと思った。しかしそれでも芥川の王朝ものの中で長めの「邪宗門」は鷹揚な語りで、他の短篇の電撃的な語りとは少し違う印象があり、特に平太夫という愚かで切ない脇役のジジイのなんともいえない感情を曖昧なまま書いていて、そこには多少の愛があるようにも思う。長さはたしかに愛であるようだ。
明日は祖母の四十九日で子供を連れてお寺に行く。スライドを作る時間は明日もなさそうだと思う。