日記2024年4月①

4月1日
今年度から大学病院でも外来診療をするので新入職員ガイダンスに参加するはめになった。大学病院は久しぶりである。色々なことが変わった。教授が定年で退官してスタッフが減ったから私にも声がかかった。会場は若い医者でいっぱいだった。働き盛り。電子カルテの初期設定に苦労して方々電話をかけ複数部署を右往左往した。さいきん電子カルテシステムが全面刷新されたので私には扱い方がわからない。中途半端な立場で孤独感が募り、情けなくなってどんどん気分が落ち込んだ。大学院生でなくなったので病院から大学への連絡通路の扉を開けられなくなり、迂回を強いられただけで傷ついてしまった。もう激鬱である。お先真っ暗。何もかもが手遅れ。でも背中を押されている。やめろやめろ。このままではまずいと思い、上司に泣きついた。とりあえず明後日カルテの使い方などを教えてもらうことになった。優しい。とりあえず少しずつやっていくしかない。医者として一番の働き盛りの年代だが、私はいちからやりなおすようなもので、その中でもできることを少しずつやるしかない。鬱という大荷物を抱えてちょっとずつ進む。抱える荷物が大きすぎて前が見えないが。
鬱でハアハア言っていたらかなり疲れた。明日も仕事なので早く寝る。しかしこの「鬱」というカジュアルにやってくるもの。うつ病の再発とは違うけれども全く別でもないもの。これは何だろうかと思う。でも「鬱」としか言いようがないのだ。うつ病を経験した後の「鬱」は、底の深さを知った状態で穴を覗いている。落ち切らなくても落ちた先を知っている。うつ病の記憶が甦る。そういう鬱である。飽きるまで見つめるのも手かもしれない。

4月2日
天気がいいし涼しくていい。香典返しの海苔でごはんを食べた。寝て起きて鬱な感じは軽くなったのだが仕事への不安は依然としてあり、些細なことから大きなことまで失敗するイメージばかりが浮かぶ。こういうときに私は「勉強」のための本を買うことに逃避する癖があり、気がついたら『カプラン臨床精神医学テキスト』を調べていた。22000円也。実は改訂されてから読んでいない。お守りにしては大きく重くなにより高価なのだが必要っちゃあ必要性である。近いうちに買う。また些細な心配なのだが、なぜか仕事用の白衣が足りなくなることを今やたらと心配している。それが大きな挫折になるかのように感じている。急いで買わなければと思って調べると、着やすいものを選ぶと10000円くらいする。もっと高いのもある。悩ましい。

部分ツイートというのは脈絡がほぼないので集まっても一個一個それぞれの趣きでできている。気に入ったものに反射的にいいねを押したくなって、ここはツイッターではないのだと気がついた。

勤務先のカンファレンスで少し難しいケースが挙げられていて、プレゼンする医師と看護師さんと心理師さんでそれぞれ目のつけどころの違う話が飛び交っていて、調和はないのだが多声的で、この調和のなさがカンファの価値であるなと思った。

4月3日
最近の暖かくなったから掛け布団を薄くしたら冷えてしまって朝寒かった。午前の仕事を終えたら雨だった。車でしばらくラジオトークを聴いていた。スマホのスピーカーで聴いていると必ず右耳の鼓膜張筋痙攣が起こる。音を小さくすると楽になるのでかすかな声に耳を澄ませる。小さな羽虫が迷い込んでいたので手の甲で払ったら潰してしまった。弱い羽虫だった。穏便に追い払えばよかった。私は話すのが苦手で、頭の中の言葉と口がうまく繋がっていない感じ、もしくは口だけではしゃべってくれない感じがある。
そわそわして何か有意義なことをしたくなるけれど、焦らないように思いとどめる。いつもの喫茶店へ行った。今日も店主の息子さんがいた。コーヒーを飲みながら銀行アプリを開いたら、最近子供を遊ばせるのにお金を使ったために貯金がだいぶ減ってしまっていた。こうして仕事への不安が募っているときに限って新たな不安要素を見つけてしまうが、しかし仕事が増えるということは少し生活が楽になることでもあると考え直して少し発奮する。大学病院だからかなり安い給料なのだがまあ無いよりはマシであろう。
子供の幼稚園のお迎え。雨は弱まりつつあり、「あめのおとはきこえないね? ちょっときこえるかな? きこえるね?」と話していた。
大江健三郎『新しい文学のために』を読む。さまざまなレヴェルでの「異化」。作家は読者の近くを長引かせ、容易に読めないような、世界の中の「もの」を表せる言葉を探求する。そうした言葉はただの情報伝達にはない特有の「もの」になる。大江健三郎の原稿の写真を見たことがあるが、単語を書き換え、挿入し、入れ替えたりしながら、繰り返し文に手を入れていた。書かれた文章の単語のひとつひとつに作家の注意の目と具現化の手の跡を感じるように読む。そこに作家の書いた言葉が生き始める。
『イギリス人の患者』最終章、工兵キップ(シン)が教会の受胎告知のタブローの下で停電復旧の時を待つ。ナポリの街にはドイツ軍が数千個の爆弾を仕掛けた可能性があり、住民は全員避難し12人の工兵だけが残って徹夜で捜索したがみつからず、キップは教会で通電の時を待つことにする。キップはシーク教徒のインド人である。戦場で生死の岐路に立つ者の無形式的な祈りと安息が、そこに存在するものの描写にのみよって展開し、膨張、拡散し、小説世界を満たしていく。人間が生きることの普遍性を美しさによって描く、この優れた小説の中でも白眉といいうる素晴らしいシーンであった。

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