日記2023年5月②

妻のおばあちゃんに子供を会わせるために山梨に行った。三歳児をつれて片道3時間以上の旅は疲れる。

ゴールデンウィークの疲れが取れない。

昼過ぎまで寝ていた。本屋に行こうと思って外に出たら垂直な壁に見えるくらい灰色一色の曇天で、でもスマホで天気を確認したら夜にちょっと雨が降るだけの予報だった。傘をとりに戻るのが面倒になってそのまま電車に乗った。本屋の最寄駅に近づくにつれて窓に斜めの水滴がつきはじめた。しまったなと思ってもう一度スマホを見たらそれでも予報の上では一時間後も曇りのままだったのですぐ止むのだろうと思って駅のベンチで待つことにした。結局傘なしで歩くには強い雨になった。

スマホにイヤホンを挿して、歌舞伎の映像配信で三月の歌舞伎座にかかった「髑髏尼」を見た。大正期の作品を玉三郎が復刻した。玉三郎は近代歌舞伎の忘れ物を拾い集め続けている。源平の争いの中で夫重衡が死に、息子も殺され、子の首の髑髏を携えて出家した新中納言御局は夫への情念、源氏への怨念にかられながら子の髑髏を愛でる。寺の鐘楼守七兵衛は醜い容姿のために母から鏡を見ることを禁じられていたが、美しい髑髏尼に恋をし、水に映る自分の顔を見ることを決める。髑髏尼は夫重衡の霊に恋しさと源氏への恨みを語る。そこに鐘楼守七兵衛が現れて髑髏尼への恋慕を伝えるが、拒絶された七兵衛は結局髑髏尼を殺し、自分も死ぬ。髑髏尼に関しては現代の玉三郎が大正時代に書かれた平安末期の実在の人物を演じるという三重の構造があり、戦争の中で生き(残)る女性という現代に通じるテーマを取り出せるだろうか。しかし髑髏尼は、七兵衛という「お前は醜い」という禁を破って「鏡」を見ることによって自我に目覚めた男の恋慕によって殺されてしまう。そして七兵衛は「勇敢にも」自死する。情念で生きた女性と、情念で殺し情念で死ぬ男性という対比がある。実在の髑髏尼は天王寺への巡礼の後に入水自殺するので、この七兵衛という男に殺されるという筋が大正時代の台本の意図であり縛りである。戦争の中で翻弄された女性が、大正時代の「芸術」的要請の中でも男に翻弄されて殺害され、それを現代の玉三郎が舞台上に甦らせる。玉三郎の髑髏尼は情念的で妄執的であって不完全な人物だったけれど、静謐で美しく、一個人として生きた髑髏尼を舞台上に見せる思いがあった。今回の「髑髏尼」は決して傑作というわけではなかったけれど、歌舞伎という形の中で人物を舞台上に浮かび上がらせるという近代歌舞伎の精神を真摯に受け継いでいたと思う。従って自然主義的な演出でよい。

駅のベンチからちょうど正面の上方に燕の巣が見えた。まだ巣作りの途中だろうか、盛んに燕が行き来していた。燕の巣があるところにはいろんな人が来ては去っていく。中学生は走ってくる。おじいさんは歩いてきて帽子をとる。見上げて、燕を目で追って、帰りに窓から雨の様子を確認していく。一時間経っても雨は止みそうになくて、組んでいた脚の重みで足の裏が痛くなってきた。またスマホを見ると雨マークが増えていた。もうすぐ5時で、6時まで待てば止みそうだったけれど、私は帰ってご飯の支度をしないといけない。ベンチを立って外を見ると、しっかりと雨筋が斜めに見えるくらい降っていた。燕は平気で飛んでいた。そのまま引き返して帰りの電車に乗って、帰った。本はまた今度にする。

前回のPodcastで国語教師が、短歌を作るには短歌で表せるサイズの心の動きを短歌の種として探して残しておくことが必要だと言っていて、私はそれを聞いて目が開かれた思いがして、確かに多くの表現がその表現にに適した心のサイズを持っている。それを破ったり破らなかったりするのがその表現の歴史を作っていると言えるかもしれない。

夏目漱石の日記を読み始めた。岩波書店の漱石全集十九巻。手帳に残した記録が活字になって図も含めて収載されるとはすごいことだ。サイズの話でいくと、なるほど漱石のメモは小説のサイズだった。留学へ向かう船上で読書中に声をかけられて驚いて見ると知り合いの英国人女性で(ここで記録が翌日に飛ぶ)、翌日船室を訪ねると仲間の前で漱石は夫人からマシンガントークで誉め殺しにされて閉口する。

ロンドンの漱石の日記は大学に行ったり人と会ったり演劇を観たり忙しそうで、主にそういう社交の記録をつけているけれど、それ以外のパーソナルな記録は愚痴と散歩の記録が多い。漱石にとって散歩とはなんだろう。そういう視点から三四郎やこころを読んでもいい気がする。

図書館で漱石全集を借りた帰りに寄った洋食レストランのイサキのグリルがとてもおいしかった。ライスじゃなくてパンにして正解だった。昼過ぎの少し遅い時間に入ったら、他のお客さんは二人でどちらも一人客だった。皆静かで感じがよかった。

映画「NOPE」を観た。視線と撮影というものの力、暴力性。前半の不思議なサスペンスが良かった。

安売りのメロンを三歳児が一人で全部食べてしまった。

三歳児が「静かな湖畔の森の影から」の替え歌バージョンを覚えてきてずっと歌っている。

日記を書く元気がない。鬱というよりは疲労という感じ。

目の前で三歳児が粘土を捏ねている。

本屋lighthouseで『ユートピアとしての本屋』(関口竜平)、『そして市場は続く』(橋本倫史)、『いなくなっていない父』(金川晋吾)、『愛は時間がかかる』(植本一子)を購入した。

文学フリマ東京に出す同人誌が届いた。うつ病で休学中の精神科医が喫茶店に行って帰ってくる小説を書いたのだけれど、この間Podcastで国語教師と話をしているときに彼が最近の、自分の「弱さ」を売りにしているような風潮が嫌だみたいなことを言っていて、自分もそうなのかなとかそうだったら嫌だなと思ってちょっとびびっている。まあ自分ではそんな気はなくて書けることを書いたらこういうものになったということでことさら「弱さ」を売ってはいないと思うのだが。とりあえず読んでいただけると嬉しいです。

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