日記2024年10月①

10月1日
非常勤先の精神科に今月は初期研修医の先生がいるので朝挨拶して少し話した。その先生が来年からいく病院は私の父が長年勤めた病院なのだが、特にそのことは言わなかった。私は人の顔は絶対忘れないのだが名前を一瞬で忘れてしまうので、別れ際にもう一度名前を確認させてもらい、自分の席に戻ったらまた忘れていた。院内PHSの番号はきっちり覚えていて、PHS番号一覧から探して、たしかこんな名前だったなと思いながら見たら全然違った。3, 4回見直したのでこれでさすがに覚えたと思う。
帰ったら妻がから揚げを作ってくれていた。長谷川あかりさんの塩だけのから揚げ。とてもおいしかった。いくらでも食べられたが我慢した。
妻が子供と少し散歩に出て、帰ってきたら子供がトランプを持っていた。やりたいと言うのでババ抜きをやった。ジョーカーを少し飛び出させておくときっちりそれを摘んでくれるので笑ってしまう。
妻が昼のうちにベビー服を整理していて、かわいいのがたくさん出てきた。洗濯をした。0歳のうちはおさがりでいいでしょうと話した。

10月2日
寝坊した。慌てて子供を起こしたら子供の機嫌が爆発的に悪くて「ウルサーーーイ!!」とデカい声で怒鳴られた。その後もポカスカ殴られて大変だった(手加減はする)。
仕事。初期研修医の先生と初診と再診を1件ずつみて説明をした。不眠の診療では何時に布団に入って何時に入眠して何時に何回中途覚醒して何時に目覚めて何時に布団を出るかを訊く。つまり睡眠記録表と同じ情報を集める。これを初診でも再診でもサボらずやる。飲酒習慣と身体疾患の病歴を把握する。神経症性不眠の仕組みがあるか把握する。抑うつの有無を判断する。とりあえずこの辺りを骨格としてアセスメントすると大まかな介入点が見えてくる。その上で睡眠衛生の一般論と個別の不眠メカニズムのポイントを伝えて、睡眠習慣の改善点と薬の話をする。これで「アセスメント→心理教育→介入」のサイクルができる。一般的な不眠症は大雑把にはこの形でいけると思う。他の精神疾患に伴う不眠の場合にはその精神疾患の症状維持のメカニズムとの兼ね合いでアセスメントが複雑になり、介入も簡単ではなくなる。特にACEsのある人はかなり薬が効きづらい不眠を呈することがあり、その場合には丁寧にアセスメントを共有する心理教育がとても大事になる(きちんと協働的に考えてくれているという安心感が症状を少しマシにしてくれる)。
こういうことを初期研修医の先生にブワーッと話す。多少引いているなという感じはするけれどそれでいいのである。
ついでにACEsに関連する疾患概念群を整理しながら話してみたのだが、これは自分にとっていい勉強になった。
以上、紙2枚に図解も交えて話した。
お昼は妻と食べた。田舎の洋食屋さんで、とてもおいしかった。
保育園利用のための診断書をもらいにかかりつけのクリニックに行った。帰りの電車に塾へ行く小学生がたくさんいてご苦労様ですと思った。子供も大変である。
妻が車を運転していたらおじいさんがうずくまって助けを呼んでいたから停めて介抱したらしい。車に乗せて家まで送って行ったそうだ。えらい。「時間は大丈夫ですか?」などと気を遣ういい人だったそう。「妻に怒られる」と心細そうにしていたらしいが、たしかに怒られていたそうだ。老人の二人暮らしは大変である。無事でいてほしい。
夜は長谷川あかりさんの鶏とネギの醤油蕎麦にした。とてもおいしかった。
子供がマリオカートの風船バトルモードに気づいて始めていた。うまくなっている。

10月3日
髪を切った。次来る時にはもう子供が生まれていて忙しそうだから2ヶ月ほど間隔をあけるつもりなので、いつもより気持ち短めにしてほしいと伝えたら、「あまり短いとアレなので…、気持ち…、気持ち短めという感じで…」とすごく躊躇していて、私はそんなに短髪が似合わないのかとあらためて知らされた。でもきちんと気持ち短めにしてくれた。今度はまた伸ばし始めようかな。
妻とお昼ご飯を食べた。妊婦なのでお店の人がクッションを貸してくれた。初物の松茸を食べた。
引越し先の候補にしていた物件が他の人に先に取られてしまったのでまた不動産屋さんに物件探しを依頼したら、すぐに複数送ってくれた。上の子が小学校に上がる前には済ませたい。
子供のサッカー教室のお迎え。小雨が降っていたので屋内でやっていた。半年以上ずーっとドリブルからの方向転換の練習を続けていて、少しずつ上手くなっているから偉いなと思う。うちの子はゴールを3回も決めたと自慢していた。このあいだ一緒に遊んだ子とも会って手を振った。とてもシャイな子なのだが目があったのでよかった。別の子で、小学生のお兄ちゃんがいつもお母さんと一緒に迎えに来ていて、このあいだようやくこのお兄ちゃんのほうと話せるようになり、今日も手を振ったら手を振りかえしてくれた。また別の子で、一個上の年長さんの知り合いの子がサッカー教室でのことを全部話して教えてくれるのだが私も全部見てたよとは言わず、そうなんだー、そうなの?と相槌をうった。保護者同士で少し挨拶をしてから帰った。
クリーニング屋に寄って受け取って帰った。妻が土曜日の法事で着るものが含まれている。
今日はどうも一日中明日の仕事が不安で落ち着かなかったのだが、最近こういう日には帰ってすぐ風呂に入ることにしていて、こうするとなぜか不安が軽くなる。今日もそうした。
夜はステーキ肉の残りを焼いた。子供はまたよく食べてくれた。
無花果が届いたのでチーズを買ってきて合わせて食べようと思う。

10月4日
早朝に雨だったみたいだが朝には曇り。
仕事の合間に医局にいたら教官の先生が来て最近おもしろい本あったかと聞かれて、そういえばあんまり読んでないなと思った。『心理学における構成概念を見つめ直す』を読もうと思ってまだ読んでないですと答えた。先生は最近自閉症と当事者の本について調べているらしく、色々と話した。私はASDについてよくわかっておらず、操作的診断基準、歴史的に形成された疾患概念群、当事者の語り、神経心理学的知見などがそれぞれ隔たっていることがその原因なのかなと思っている。
夕方のカンファに出た。若手の先生の見立てとプレゼンの中に我々の医局の教育の良くないところがモロに出ていたので、「これ言うのは余計なことだとは思うんですが…」と前置きした上で控えめに誤りを指摘したら、私より少し上のとても話のわかる先生が私の意図に気づいてくれて、「あーそれは我々のね良くないところですよね」と言って若手のフォローをしつつ話を受けてくれた。このカンファは上の教官からネグレクトされているカンファなのでこの先生が一番上の学年、私が二番目、司会を任されているのが私の一個下で三番目、という具合で上がいないから前教授時代からの悪癖に批判的な指摘ができる。カンファのあともしばらく上記の3人で話し合った。要はある患者さんの一群をどのように評価してどのように治療するかということの意見の相違なのだが、うちの医局の教育ではAという診断名による理解しか教えない一方で本当はA, B, α, β, γ, い, ろ, はくらいの多元的なアセスメントが必要である、というような相違なので、たぶん後者のほうが優れている。もちろんAが正解ということは起こりうるのだが、医者としては後者の視点を持っていた方が能力が広がるしなにより臨床がおもしろくなる。私は勉強したことを吐き出すチャンスと思ってブワーッとこういうときにはこういうアセスメントをすると臨床的にこのようにうまくいくという話をしまくって盛り上がってしまい、帰りが遅くなった。この金曜夕方のカンファはもっと若手が自由に思ったことを言えるといいですよねという話にもなった。そうなると嬉しい。医局に対してゲリラ戦をしかけている実感があり、活き活きしている。

10月5日
祖母の一周忌の法事があった。雨。早めにやむ予報だったが降り続いた。子供は出かけるのを渋った。法事が怖いのと久しぶりの親戚が恥ずかしかったらしい。電車ではるばる寺に向かい、雨に濡れて寺に到着した。子供が従姉妹の子供たちにお菓子のお土産を渡した。従姉妹の子は上の子が6年生、下の子が1年生。上の子は勉強をしていた。読経の後坊さんが軽くMCをしたのだが、マイクを使っているからなのかやたらと小声で、そしてスピーカーがやたら遠くにあるので、増幅させた小声を本堂全体に響かせるかたちとなっていて、坊さんの体は2m先にいるのに声は聞こえず、消えいる直前の息遣いが反響していて、聞きづらいというか私は全く何を言っているのか聞き取れず、とりあえず笑えた。うちの子はその坊さんの読経が怖くて退席していた。
親戚で写真を撮ったのだがうちの母は写りたくないと言って隠れたりしていてめんどくさかった。
予想よりも早めに終わったので会食のお店に早めに入れるかを父が電話して確かめたのだが、電話が終わった後なぜか誰にも結果を伝えずにふらふらしていて謎だった。ちゃんと仕切ってくれないと困るのだが。
お店に移動し、うちの子は従姉妹の下の子と隣になって、たくさん構ってもらって遊んでいた。持ってきた人形やハンカチやそこにある紙や割り箸を使って家族や家や家具やゲームのキャラクターがどんどんできていく。遊びのアイデアがどんどん出てきて子供はすごいと思う。うちの子はにらめっこという遊びを初めて知り、ずっとゲヘヘヘと笑ってしまってうまくできず、最終的に泣いていた。
従姉妹の上の子は明日塾の模試があるらしく、勉強していた。算数の図形の問題を解いていた。星型の図形のどこかの辺の比を求めるらしく、私はこういうの苦手だったわと思ったが、そもそも算数が全て壊滅的に苦手だったのでこれに限った話ではない。私は家で全く勉強をしていなかったからこんなふうに法事にもプリントをもってきて問題を解いているのは本当にすごいと思う。というか私は小6のときは人生のドン底と言ってもいい状態で学校にも塾にも行けなくなり(でも行っていたが)、そんな自分を責めて罰としてずっと具合悪く過ごしており、実際とにかく胃が痛くてのたうちまわるほどのときもあった。あの頃は本当に人生が闇の中だったなあ。マジでなんの希望もなかった。うつ病の一億倍キツかった。

鳥羽さんの記事。岩波の『世界』2月号に掲載されたもののようである。勉強とは生活の足下を耕して世界を味わうようなことで、子供は親が自分の知らないことを活かして生活していることに気がつくいたときに勉強というものを知り、勉強が始まる。それはそのときその人にしか作れない何かを「つくる」ことなのだ。

私が自分で勉強できるようになったのは高校3年生のときで、それまでは毎年留年ギリギリまで学校を休んでいたのが高3だけはほぼ皆勤になった。生きることを知ったのだと思う。数学だけは相変わらず壊滅的にできなくて苦労したが、二浪して医学部に入れたのは幸運だった。よくわからないがたぶん中高でウジウジしながら好きに本を読んでいたのはいい影響を残してくれていて、おもしろいことが世界にはあると知らせてくれた。そして高3で進路を決めるときに(文系から医学部に志望を変えた)、おもしろいと思うものを自分の足で探しに行っていいということを知ったのだと思う。
色々あってもまあ大学受験前後くらいでなんかしらで帳尻があうのかなという楽観的な期待が私にはあって、うちの子は中学受験もあまり無理はさせないかなあと思う。塾に通わせてみることはするかもしれないが。最近はゲームが多いけども、よく紙コップやペットボトルやティッシュをセロハンテープで止めて謎のアイテムを作っていて、こういう本人もどう遊んでいいかわからずような自分の手に余るオブジェクトを作れるのがよいなと思っている。

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