2024年3月④

3月12日
今日は結婚式を挙げた日だった。日付を書くと思い出す。その日もきっと沈丁花が咲いていて、沈丁花は私が子供の頃マンションの植え込みに咲いていた花だからずっと懐かしい。ちょっとした暖かさとともに強い香りがするから今なら春の嚆矢であることがわかるけれど、記憶の中の子供の私はこの肌の生温かさの感覚だけを憶えている。子供には季節というものは大きすぎる。冬もその中に全てが入ってしまうほど長く、春もまたその中で全てが起こるほど長い。幼稚園に入って子供は春夏秋冬を教わる。季節があることを知ってからまだ一周していない。子供は循環を知らない。常に今である。
年度末は慌ただしい。患者さんからも新年度の変化の話題がたくさん出る。私もうつ病以来セーブしていた仕事を増やしていく段階に入ってやはり緊張している。上からも下からも自分の仕事を見られてしまう職場だからなおさら。しかし、医者として患者さんに言うことを思い返せば、新しい環境になるとそれはそれで良い方に落ち着く場合もあり、特に思春期の子の場合そういうことが結構ある。思春期には勝手に変わっていく自分についていくのが大変なわけだけれど、その勝手に変わっていくことが救いになる部分もあるということか。この歳になると放っておくと足が止まっている。流れに乗って流されながら動いている状態を作るのが大事なのだと思う。
子供は寝相が良くなくて大人の体に突き刺さってくるから困っていたのだけれど、子供専用の布団を新しく用意したらその長方形の中にきれいに収まって寝るようになった。子供にとって、自分だけの場所に自分の大きさにあったものが用意されていることが大事みたいである。

3月13日
今日はよく晴れた。妻がお昼に数時間有給をとったので一緒にご飯を食べた。サラダバーがついていて私はコーンスープをたくさん飲んだ。子供の頃から好きなものは今も子供のような食べ方をしてしまう。夜はあまりお腹が空いていなかったので納豆とたくあん、子供には鮭おにぎりにした。シンプルにお米がおいしかった。炊きたての米はうまい。あの香り、粒の立ち、温度が炊きたての米にしか出せない味を作る。三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』では「風味」という言葉がキーとなっていた。炊きたての米の風味。数年前に張り切って象印のいい炊飯器を買い、よいご飯を食べられるようになった。買って正解だった家電の筆頭である。井上まい『大丈夫倶楽部』の主人公も一人暮らしを始めるときにちょっといい炊飯器だけは絶対に買うと決め、実際にその炊飯器はその後の生活を支えることになる。炊きたての米を口に含んだ瞬間にああこれは炊きたてだとわかるのはやはり日本で育ったからで、米の微細な違いが明瞭に認識される。生まれ育つ土地によってその対象は変わるのだろう。鬱期を抜けて徐々にパフォーマンスが上がっていくこの時期は食欲が出やすい。油断するとまた変な太り方をしてしまうので気をつけないといけない。でもきっと明日の朝もごはんをたくあんで食べるのだろう。そういえば子供の頃たくあんが大好きだった。近所の惣菜屋でよく買っていたたくあんは鰹節が和えてある旨味の効いたシブい味だった。ほんのり甘いのが好きだった。30も半ばになると、味を過去に探しにいくようになるのかもしれない。

3月14日
渋谷のユーロスペースに清原惟監督の『すべての夜を思いだす』を見にいく。駅の向かいのホームで「駅員さーん!」と大きな声で助けを呼んでいる女性がいて、病人か痴漢かだろうかと思ったけれども人の多い時間でホームが違うので何も見通せず声がするばかりで、よくわからないまま私は私の電車に乗った。ほんの10メートル離れたところであっても私には何もできない。そこに多くの人がいればいるほどその人たちが越えなければならない川となって私を遠ざけてしまうし、私もまた誰かにとっての川である。こういうときに私は自分が倫理的でなかったことを非難されるのではないかと怖くなる。
道玄坂からユーロスペースに向かう途中でテレビドラマの撮影をしていて、安田顕が立っていた。少し離れたところからでも顔の陰影が異様に濃く見えたので生で見るとメイクは目立つのだろう。
『すべての夜を思いだす』は団地を舞台に土地と人の記憶をさまざまなスケールで映す。カメラの枠の外にあるものの存在感を映そうとしていたように感じた。冒頭の風景が連続するところの音、登場人物の視線の先。画面のフレームの外に映画が拡がる。そうするとカメラの枠とは何であるのか。切り取られたもの。切り取ったから私たちは同じ画面を共有できる。映画の中で、夏と友人が死んだ友人・大の命日に花火をする。画面は2人を映す。それがいつのまにか切り替わり、しかし同じ2人が花火をしている。夏は「早くこっち来なよ」とカメラに言う。視点は生きていた頃の大になっていた。そして次のシーンではさらに、そのとき大によって撮られた写真を、現在のカメラ屋の男が見ている。切り取る、撮ることによって死者と視線が重なる。劇中の現在を切り取るカメラの視線はだから、死者の視線でもある。かつてそこにあったすべての視線が我々の視線と重なる可能性をもつ。カメラの作用によって。それが「すべての夜を思いだす」ということなのではないか。
朝の渋谷は人気がなくずいぶん寂しくなったものだと思っていたのだが、映画が終わって駅に向かったら腹が立つほどの喧騒でやはり渋谷は渋谷だった。でも今はBunkamuraが改装中だからか、ユーロスペース近辺は人が少なかったかもしれない。急いで帰って子供の幼稚園のお迎えである。道中、AJICO『ラヴの元型』がよかった。日本語の歌の良さがある。日本語といえば、『すべての夜を思いだす』のダンスのシーンの日本語ラップもとても良かった。音楽はジョンのサンというグループが作っていて、この場面もジョンのサンのメンバーの一人が所属するESVというヒップホップグループの曲らしい。
幼稚園で子供のサッカー教室を見ながら保護者の間でおしゃべりをした。お母さんの中に入れてもらえると嬉しい。子供同士も仲良くしていけるといいと思う。
夜トイレに行くときに暗い廊下に遊園地で買った風船がゆらゆらと浮かんでいて怖かった。

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