起こっても良さそうなのに起こらなかったことについて考えている
みなさま、お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか?
私の方は、6月の半ばにクラスの学期が終わり、その後、ドイツとスロベニアでアレクサンダーテクニークのワークショップを受け、用事でトルコに行って、アイルランドに戻り、それからはひたすらトルコ語の勉強と読書、という引きこもり生活をしています。アイルランドにいるのにね。
8月になったところで改めて振り返ってみると、7月、そういえばほとんど誰とも喋っていない!と気がつき、そこに至ってこの場をようやく思い出したので、この文章を書いています。
私は、ここ1ヶ月くらい、『「アレクサンダーテクニーク」というものを始めた・生み出したのが、オーストラリア(もう少し正確にいうとタスマニア)生まれの俳優・朗誦家であったF. M. アレクサンダーだったのはなんでかな』ということをぼんやり考えています。
「俳優・朗誦家だった」という点はおそらく1つ大きなポイントで、そうであったからこそアレクサンダーは自身の問題を解決することが、切実な、自分の人生を懸けた課題だったはずです。
また、アレクサンダー自身が、「俳優・朗誦家」として、鏡を使った訓練方法に精通していたことも大きな要因だと思っています。1日8時間以上パソコンに向かって働くオフィスワーカーが腰痛に悩まされている時に、自分の姿勢の悪さが原因ではないかと考えることはあるでしょうが、自分の姿勢を何ヶ月、何年にもわたって、仕事をしながら、鏡でチェックする、なんてことは滅多にしないでしょう。
課題の切実さと、訓練方法への熟練、朗誦家であったアレクサンダーがテクニークの端緒を掴むには十分な背景のように思います。
このぼんやりした疑問は、少し視点を変えると、『日本またはアジアのどこかで「アレクサンダーテクニーク」的なものが出てこなかったのはなぜか』ということでもあります。私はむしろ、こっちの見方に興味がある。
もちろん、私が知らないだけで、あるのかもしれない。もしそうなら、教えてもらいたいという気持ちもあって、ここに書いています。
ただ、私はなんとなく、「アレクサンダーテクニーク」のような形で体系化されてはいないものの、一部が似たものや、根底にある原理を共有したものが、日本やアジアのどこかに結構たくさんあるのではないか、と考えています。
そんな思いもあり、7月中は、鈴木大拙の禅に関する著作を結構読んでいました。すると、単独で読んでいたらよくわからなかっただろうな、と思う文章も、「私の理解しているアレクサンダーテクニーク」に引き付けてみると、本式の理解ではないのかもしれないけれど、スッと入ってくる部分が多く、面白く読めました。「よくわからないものによくわからないものをぶつけて合意点を探る」というのは内田樹さんが『他者と死者』で書いていた方法で、こういうことかなというのが私なりに実感できたように思います。
なので、他の方が書いた本ももう少し読んでみたいと思っています。もし何か面白そうなものがあれば、禅に限らず、おしえてもらえると嬉しいです。
このぼんやりをもう少し先まで延ばして、私は、『もし「アレクサンダーテクニーク」が日本で生まれていたら、どういう言葉でテクニークの原理が説明され、どういう言葉を使っていたのだろうか?』と、たまに考えます。
私は日本で教えている方がどういう言葉を使って教えているのかを詳しく知らない上に、自分で伝えようとしたときにどんな言葉を使うのかな、といつも疑問に思っていることもあり、私としては、これは是非とも考えてみたい疑問です。
日本で出版されているアレクサンダーテクニーク関連の本を読んでいる限りだと、用語の多くは直接英語の言葉を翻訳したものか、英語の言葉をカタカナ語にして直接使用していることが多そうです。そもそも日本語から始まっていたらどんな言葉を使っていたのか、と考えてみて、何かが見つかったなら、その方が伝わりやすい、こなれた表現になるのかもしれない、と思っています。
とはいえ、アレクサンダーテクニーク自体は、もうすでに英語で始まり、100年近くの歴史があるわけなので、戻るべき場所は常にそこなのだ、ということもいつも考えています。
だから、ピッタリ重なる言葉、というのはなかなか無いのかもしれませんが、日本語的にうまくハマる言葉はあるのかな、と思ってます。
まぁ、経験することが大切なので、言葉にこだわりすぎるのも良くないのかもしれませんが。
私にはアレクサンダーテクニークに関する原理や説明で未だに腑に落ちていないものがいくつもあり、この夏はそれを少しずつ整理して、全体的な理解へとつなげていく、ということをしているような感じがあります。
私は今、3年間のトレーニングの2年目の終わりに差し掛かっているところです。1年目でアレクサンダーテクニークというものを大きく、集中的に学び、2年目になって、それらを継続して学びながら実践してきたわけですが、ここにきてようやく、これまで得たものを自分のものにしようとし始められているのかな、と、今思いました。
あくまで「し始めた」ところなので、今はこれまで受け取って溜まりに溜まったたものを大まかに、大胆に、刈り込んでみたり、ああでもないこうでもない、と、くっつけたり、はがしたり、しているような感じなのですが、そんな中で、上に書いたような、起こってもよかったかもしれないけれど起こらなかったこと、について考えるのは結構面白いな、と思っています。
みなさま、くれぐれもお体に気をつけて。
Be kind to yourself, and think of something amusing to smile about.
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