見出し画像

私にできる住民参加型保全

住民参加型保全について長々と書き連ねてきましたが、この記事で一段落します。私は、自分のこれまでの活動を振り返って反省し、今の私には住民参加型保全と呼べるような活動はできないと思っています。理由は単純です。私はいま、現地に腰を据えて活動できないからです。

住民参加型保全の実施には、地域の生活をともにすることが不可欠

私の現在の暮らしのベースは日本にあります。調査地であるムカラバには毎年行っていますが、授業の合間をぬっての訪問で、一回の調査期間は一ヶ月未満です。現地にいる間はゴリラのフィールド調査に最大限の時間を取りたい。そうなると、地域の人びととともに過ごす時間はほんとうにかぎられてしまいます。

これまでに培った信頼関係があるので、調査はできます。また、いついっても村の人びとは私の訪問を喜んでくれて、調査の合間に村でおしゃべりしたり、調査を手伝ってくれるローカルアシスタントの人とは調査中もいろんな交流ができます。しかし、それでは絶対的に時間が足りません。

これは心の底からの実感ですが、本当に「住民参加型」の保全活動を行いたいのなら、やはりそこで暮らさないとダメです。地域の生活を共にするなかで、少しずつ住民の保全に対する理解が進んでいくものだと思います。

では、私に出来ることは何か。それは、今後もずっと、短期間でもいいから地域の人びとと関わり続けること、そして、短い滞在中、できるだけ多くの人たちと関わりや対話の機会をもつことです。それはもはやただの里帰りに近く、保全活動と呼べるようなものではありません。だから私には住民参加型保全は無理なのです。

短期滞在者がしてはならないこと

このような私の態度について、短い滞在期間を言い訳にせず、その時間でできることを考えるべきではないか、という批判があるかもしれません。しかし、私はその批判を受け入れるつもりはありません。

これまで、ムカラバには何度も欧米や(時には日本の)保全団体や保全活動家がやってきて何かをして去って行きました。はっきりいって、短期訪問者の活動は村の生活にとっても大型類人猿の保全にとっても、攪乱要因でしかありませんでした(ただし、長期滞在者の招きによる場合をのぞく)。私は、彼らと同じような存在になりたくないのです。

短期滞在者に何ができるか、を考えるより、何をしてはならないかを考えるべきです。そして、私が自分への戒めとしているのが、以下の内容です。

導かない

アフリカ大型類人猿の生息地の多くは田舎で、概して教育水準が高くなく、また情報面でも遅れているのが現状です。そういう地域の人びとと関わっていると、どうしても「もっとこうすればいいのに」と思うことがあります。でも、短期滞在者が上から目線で助言をしても、相手の心に響くことはありません。啓発はただの自己満足です。

儲け話をしない

私たちは、大型類人猿の保全によって地域住民の発展に制限がかかってはならないと考えています。そして、彼らが保全に参加することによって経済的にもより発展できるような仕組みを考えています。それは事実ですが、それを不用意に話すと、保全はただの儲け話になってしまいます。「保全活動に参加すれば、雇用も増えるしビジネスチャンスも増えるし、いっぱい経済効果があるよ」と、オリンピックや万博の招致運動みたいな話をすれば、地域の人びとに夢をみさせることはできるかもしれません。しかし、それでは真の目的であった、自然の価値を住民と共有することにはなりません(あなたがもし、自然を経済資源と考えているならば別ですが)。

短期的な成果をもとめない

私がみてきた短期滞在型保全活動家のやり方でもっともダメだと感じているのが、自分の滞在中に成果を出したがることです。そのために、持続性のないその場限りの「活動」を考え、そこに半ば無理矢理住民を参加させます。といっても、意に反して強制的に参加させるのは不可能なので、お金や景品で釣って参加をしてもらいます。「住民会議」を開いたり、適当にお膳立てして「住民グループ」を作ったりします。
繰り返しになりますが、長期的に保全活動から住民が利益を得るしくみをつくることは重要です。でも、いまこの場で参加したらお金をあげますよ、というやり方は百害あって一利なしです。
短期滞在型の人がその場での成果にこだわるのは、自分たちのプロジェクトの成果が欲しい(そして次の助成金獲得につなげたい)からで、自分が去った後のことは何も考えていません。かくして、活動実績のない「住民グループ」が何度もスクラップアンドビルドされます。

自分の主張を住民に言わせない

お仕着せの「住民会議」なんかをやると、かならず優等生的発言をする人がでてきます。住民参加型保全を実現したいと思っていると、そういう発言がとてもうれしく感じられ「結構いい発言がでた」なんて報告したりします。私もそうでした。優等生的な発言は、住民が主体的に保全をしたがっていることを示す「証拠」として使えます。短期間で成果が必要な場合、そうした発言が出たこと自体を、住民の理解増進を示す成果として重宝したくなります。
でも、それらの発言は本心でしょうか?似たような発言が村人の日常会話の中で出てきてるでしょうか?「住民会議」のようなパブリックな場では、なかなか本音を言う雰囲気になりません。「間違った」ことを言うと失望されたり批判されたりする。「正しい」ことを言うと主催者があからさまにうれしそうにする。そういう場面では、自発的発言であっても、実は「こちらが言って欲しいこと」を忖度した、本心ではない発言になってしまいます。そんな会議をいくらやったって、何の意味もないですし、会議ではいいことを言ってればいいんだ、という空気ができてしまうと、話し合いの場で本音を聞くことができなくなってしまいます。

ただ、一緒の時間をすごす

冒頭の繰り返しになりますが、私は今後、目に見える成果を得られるような保全活動は行えないし、行いません。その代わり、毎年一回の短い滞在の期間、時間をみつけて調査地の人びとと同じ時を過ごし、たわいもない会話をしながら「毎年やってくる客人」として付き合っていくつもりです。日常会話の中で、私自身が感じている大型類人猿や熱帯林の価値や魅力について話、彼らが森林や保全活動についてどう考えているのかを知っていきたい。その先に何かがあるのかはわかりません。

追記

上に述べた「してはならないこと」は、すべてかつて私がしていたことです。私はこれまで、住民を導き、利益を約束し、報告書に書ける成果を追い求め、住民が私に忖度していいことを言うのを喜んでいました。この文章で誰かを批判したいのではありません。すべて自己批判です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?