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人生を創るのは他の誰でもない「哀れなるものたち」

WE ARE NOT THINGS

「自分がどういう存在なのかを証明したい」
その快感は、ある意味麻薬のような作用をもたらす。
このように映画について、あれやこれや書くのはもちろん自分の中で整理するための行為でもあるが、それならばテメェのノートにでも書くだけにおさめていればいい。
それでも、こうやって開けた場所に文章を残すことは、ある意味では自己顕示欲の一つ顕れなのだと自覚している。

ただし、そこには副産物もある。
このように自分自身が感じたことを言葉にすること・そのためにしっかりと調べ、自分の感じたものとの相違点を見出しながら頭を使って文章を構築することで、確実に自分だけが持つ特有の知性に変わっていく。
ある意味この行為は、与えられたものを刹那的に愉しみ消費していくだけの一過性のモノにはせず、自分自身にタトゥーを刻み込むような行為に近い。
全ての鑑賞作品を文章化するほど時間もないし、すべての作品が文章にするほどのモノというわけでもない。だが、千差万別があれど必ず身になっているし、特に文章にした作品に関してはかなりの高確率で内容や感じたことを忘れてない。

裏を返せば、制作陣が観客を楽しませようと本気で考えていない・信用していない・馬鹿にしている作品(主に、説明的過ぎたり、個人の受け取り方という余白を設けない、シンプルに不真面目 etc)は、文章にするまでもない消費物として扱うことになる。

なぜなら私はモノではないからだ。
誰かに「こう感じる内容ですよ~」「はい、ここ泣くところですよ~」「どうせ分からないですよね?じゃあ、説明セリフ入れますね」と、制作者側からモノ扱いされるために映画を見に行くことだけはしたくないからだ。

知性を得ていくということは、私たちが進化していくということに他ならない

私たちはスクリーンに映る変化や成長を目と耳と頭を使って目撃し、進化しに行っているのだ。

無垢で自由な破壊者

天才外科医で研究者のゴドウィン・バグスターによって、ベラ・バクスターは蘇り創造された。
彼女の新たな命の物語は、大人の肉体に幼児の知性から始まり、やがて彼女は自らの目で世界を感じたいと願うようになり、ダンカンに誘惑され世界を見つける冒険に出るところから始まる。
旅の最初はセックスの快楽を貪るベラだったが、冒険の中で出会う人々から様々な世界と知性を見出し、やがて自分自身の人生を見出していく。

ベラは自由な破壊者だ。
物語の最初は死体をおもちゃのように扱い、ちんぽこをいじり、ハサミの刃を顔面に突き刺しまくる。思い通りに行かないとモノを破壊して抵抗する。
それはいわゆる幼児期特有の、意思の表現を言語化できないが故のアクションだ。
彼女はそれが当たり前のように、クリトリスを刺激することや挿入行為の快感を覚え、美味しいモノを食べる感覚で性行為を行うようになる。

私たちがセックスやマスターベーションを人前で行わない(一部の変態を除く)のは、私たちが成長過程のどこかで、
「人前で性行為をするのは恥ずかしいこと」と経験していくからだ。
でもそうだよな、それが恥ずかしいことと学ぶ前にその快感を覚えてしまったら、全然普通にやりまくるだろうとは思う。
それはもちろんR18+の作品なのだから、ゴリゴリにセックスをしまくる。
しかし、肉体は大人の女性でも知能は幼児なので加減を知らない、まるで肩車をねだるの子供のように。
そして、セックスを熱烈ジャンプと呼称するキュートさも愛おしい。
この熱烈ジャンプという呼び方がすごく良くて、映画自体もセックスをスポーツのように扱っていて、出るものはちゃんと出ているのに卑猥じゃなくて、二人で行う筋トレのような感じがした。

もしセックスから「愛」という概念を抜き出したら、地上で最も
快感を得やすいスポーツになっていたかもしれない

ダンカンに連れて行かれて冒険に出たベラは、旅先で自身の好奇心と欲求を忠実に求め、受け入れ続けていく。酒を飲み、タトゥーを入れ、街で出会った男と性行為をし、自由奔放に踊り狂う。
ダンスのロールモデルの海を掻き分けるように、自分自身の踊りで別の世界へ泳いでいくように
やがて彼女は本を読み知性を身に付け、世の中の残酷な仕組みを知り、友人を作り社会主義に傾倒していく。
そこにいるのは、ゴッドの創造物としてのベラ・バクスターではないし、セックスの快楽と色男ぶっただけで狭量なダンカンが作ったテリトリーの中で、熱烈ジャンプに心酔するベラ・バクスターはもうない。
もちろんそこには、誰かに強要され続けて身を投げたヴィクトリアももういないのだ。

誰かの望む私はもう別の誰か

「バービー」にも見られたが、世の中には根本的に男性が女性に対して、あらゆるものを「与える」という視点が強く根付いている傾向がある。
もちろん世間の変化の中で流れは変わりつつあるが、知性も立場も権利も女性が解放を主張してやっと世の中が変わってきたような印象がある。

私はあまり男性・女性という視点に差はないと思っているのでいささか懐疑的なのだが、未だに何か仕事のプロジェクトを行う時「女性的な視点」「女性ならではの繊細的な目線」などいう言葉が出る。
果たしてそんなものはあるのだろうか?
私は男とか女とか関係ないと思うし、繊細な人間は性別問わず繊細だし、脳筋なやつらはチンポコ付いてようがいまいが脳筋だ。

とはいえ、マンスプレイニングは世の中に多く存在している。
ちなみにマンスプレイニングを超要約すると、「説明したがる男たち」要は「教えたがりおじさんって嫌だよね」って話だ。
どこまでがマンスプレイニングなのかの線引きは難しい。なぜなら、人間の価値というのは知識によるものが大いにあると考えているからだ。
だから私は、常々反省するように心がけている。
(反省してるだけなので、相手に伝わってるかは微妙だが・・・)

気をつける点は以下、
①知識の共有において、明らかに相手が知ってることに対しての知識のマウンティングを行わないこと
②相手に対してリスペクトを持つことと
③聞かれてもないことを教えるのは控えること

やはり、チャーチ・オブ・サタンは偉大だ。

ダンカンは、無垢で知識の乏しくセックスの快楽を貪るベラを寵愛した。
しかし、それ以上を望まなかった。「自分は世界を知ってる」「自分のセックスは最高」という経験値のみでベラを支配していた。
だからベラ自身が自由意志を持つこと、知性を持つことを良しとしなかった。
自由に踊るベラをスタンダードにはめ込もうとし、知識の泉である本を投げ捨て、職業選択の自由をも奪おうとしたのだ、身勝手で一方的な愛の名を借りたマンスプレイニングで。

音楽で体が動いてしまうダンスと音楽に沿ったふさわしいダンス
本来あるべき姿とは?

ダンカンはベラという無垢で自由な破壊者を、ありとあらゆる局面からマンスプレイニングを行っていたということを記憶しておかなければならない。そして、マンスプレイニングをすることでベラとの関係性を保とうとした男の、経験値にあぐらをかいて自身の知性に落とし込めていなかった末路を見ると、なんとも身につまされるものがある。
娼館のシーンで、男性客に昔のことを話してもらい、ベラはくだらないジョークを言い笑い合うシーンがあった。あのシーンは、本作でベラという改造人間を演じたエマ・ストーンの唯一、自然体でチャーミングな姿が見えるシーンだった。
特に取るに足らないシーンのように見えるが、あのシーンにすごく知性を感じる。

相手の話を聞き、時々ジョークを返し、笑い合う

そこには相手との時間を尊重し、気持ちを慮り、良い時間をお互いに模索して作るという知性がある。
何も難しい話をする必要などない。
必要なものは案外それだけで済むはずなのに、それが出来ない人間は案外多い。
そして、簡単にその道を堕ちてしまう。
どんな時か?相手を下に見た時だ。そう、マンスプレイニングの始まりだ。

話を聞いてもらえてるうちが華だ、日々ブラッシュアップしていこう。
気をつけないと我々もすぐ、壁に向かって自分と会話をする男になってしまう。

神は模範足りえない存在

他の男たちも同様に、登場人物はベラを支配できると思っている。

物語終盤、ベラになる前のヴィクトリアの時に夫だった男が現れる、ブレシンドン将軍だ。
この男もまたとんでない食わせ物で、暴力で人を脅し屈服させ服従させる様な品性下劣な男だった。
ブレシントンは前夫としてベラを連れて帰り、自分の屋敷に幽閉し、二度と自分に反旗を翻さないようにクリトリスを切断しようとする。
(もちろんベラも、自身が身を投げた経緯を知るために行ったのだ)
彼もまたダンカンとは違うアプローチで、ベラを囲い込もうとするのであった。

ちなみにこの時すでに、ベラはたくさんの男性とセックスをしていて女性同士でのセックスも経験している。もはや、ダンカンにマンスプレイニングにする余地がないため、権力構想の上位にいるブレシントンを使い、ベラに対して復讐した様にも見える。ダンカンの小ささがうかがえる。
いわゆるフラれた男によるリベンジポルノと同じ構想だ。

もちろんブレシントンの思惑は失敗に終わり、彼は圧倒的な支配者から文字通り家畜になった。
(ちなみにこの描写は、本作で私が唯一不満に思うところ。ブレシントンの身体にヤギの脳みそを移植したのなら、ヤギの身体に人間の脳みそが移植されたブレシントンを檻の中に入れて近くに置いてほしい・・・)

ベラの自由を尊重し、ベラの人生を優先した、生みの親であるゴッドにも同じことが言える。
結果的に、ベラは天才外科医の研究者による創造主になるという傲慢な欲求の産物なのだ。いわゆるプロメテウスにおけるウェイランドに近い。
ゴッドの行為とベラの存在自体が、神になろうとした身勝手な行為の証明なのだ。
ベラの人生を何よりも尊重・優先したのは、ある意味では贖罪のようなものなのかもしれない。

ゴッドことゴドウィン・バグスターはフランケンシュタイン博士
あの泡は何なん?

神=創造主というモノをイメージしてほしい。
皆さんの中に浮かぶ像はどんな姿をしているだろうか?
その多くは、髭を生やしたおっさんじゃないだろうか?
カルトや新興宗教など教団のトップを思い返してほしい。
その多くは、胡散臭いおっさんばかりじゃないだろうか?

大体予想はつくだろうけど、アダムとイブの話が原因だろう。
蛇にそそのかされたイブが禁断の果実を食べたことで、楽園から追放された・・・的な話だ。
つまり神とか人類の起源の話をする際には、男性性はついて回るものなのだ、嫌な話だ。それはカトリックが2000年もの間、女性司祭を認めないどころか、中絶も離婚も認めてこなかった歴史が証明している。
日本にも「男が生まれないと跡取りガ―!」という文化はまだ残っている。
好きにすればいいと思うけど、私自身の考えでは伝統にあぐらをかいてる文化はさっさと廃れればいいと思っている。

いい加減、人間は神によって創られたなんて考えは捨てた方が良いのだ。

EXCELSIOR、より高く

では、人生はだれが創るのか?それは明確だ。
言葉にするまでもない。
様々な場所で様々な人と出会い、自分の人生を創っていくしかないのだ。
自分を認め、自分を赦し、自分を高め、自分を創る。
私たちの物語もきっと、誰かのためでなく自分のために、自分自身が望む自分自身を目指しながら、自分自身をコントロールしていく物語なのだ。
POOR THINGSは、いつでも私たちの足をつかみ引きずり込もうとしている。
彼らの手が届かない場所を目指して、ステップを踏み続けるのだ。
ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

この作品が、自分を悲観する人間の一時的な玩具にだけはなってほしくないと切に願っている。
(指原がナレしてるCMは、本当に内容を見てるのか?と疑いたくなるほど良くない。あれは、ひどいミスリードだ)

パリの衣装がすごくいい
黄色いアウターの爽快さと素材が持つ水を弾くような質感、半透明のあっけぴろげさ、
知性を感じるインナーとスカート。
「あ、ダンカンとは別れるな」と悟った。

哀れなるものたち」(原題「POOR THINGS」)
原作 アラスター・グレイ
製作・監督・脚本 ヨルゴス・ランディモス
撮影 トニー・マクナマラ
出演 エマ・ストーン
ウィレム・デフォー
マーク・ラファロ
ラミー・ユセフ
マーガレット・クアリー


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