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まだまだ足るは知れないけれど。

昨日の夜、お風呂でInstagramを開く。中高時代の同級生が立て続けに二人婚約していた。とびきり仲良かったわけじゃなく、卒業して一度も会わず、インスタグラムのフォロー・フォロワーのみの関係なのに、それでもなんだかすごい心が揺れた。

今日の昼、ヨガの帰りにInstagramを開く。よくお昼を食べる同期がディスニーランドへ行っていた。昔は同期複数人で誘ってもらって行っていたけれど、あぶれてしまったんだな〜と思う。自分では誘う勇気がなくて、いつまでも誘われ待ちにも関わらず。

友人には恋人がいて、わたしにはいなくて、友人は人生を共にしようとする人を決めて、わたしはまだその候補すらいなくて、友人は行けたディズニーランドが、わたしはいけなくて。いつも心の中には、虚無感が漂う。

いつからだろうか、友人にはあって、わたしにはないものが、スポットライトが当たったように心のスクリーンにうちし出されて、ものすごく虚しくなる。(ほぼほぼInstagramの情報だからやめればいいという正しい解決策はさておき、)この満たされない感覚はどうしたら抜け出せるのだろうか。

「足るを知る」という言葉がある。身分相応に満足することを知る、という意味ではあるが、正しいし理想とは思うけれど、難しいな、と思う。

昔に比べ趣味は増えて一人の時間も退屈しなくなったけれど、いつまで経っても隣の芝生は死ぬほど青いし、100% 結婚=幸せではないとわかっていながらも、誰かと共に歩める人生は羨ましいし、同じ要素を持っていないとそこのコミュニティでは生きていけないような気がしてしまう。よーい、ドンとみんな一斉に始まった人生ではないにも関わらず、ある程度同じ時間を過ごした人にはどこか自分に近しいものを感じてしまい、その差に虚しくなる。違う時間を過ごした期間の方が長いのに。

「足るを知る」という考え方を頭の片隅に置いておくことは、無碍に自分のことを悲観しないために大切ではあるが、それが本当にできるのは現状それだけ満たされている人なのではないだろうか、と思ってしまう。自分のしたいこと、やりたいこと、見たい景色、一緒にいたい人が明確で、それがある程度実行できている人は満たされるかもしれないが、そこがまだ不明瞭な人はどうしても「自分はこのままで良いのだろうか」と虚しさを覚え続けてしまうのではないだろうか。

そして自力で満たせないがために、世間の言う幸せルートに出来るだけ寄せて、そこで承認されることでの充足感を求めてしまう。

だからこそ、少しでも身体的にフィットする、満たされると感じられる環境、時間を自分で作り出すことが大切なんだと思う。

クラシコムの代表、青木さんがどこかで仰っていた、「お気に入りのシャツを着ていたら他の人が着ているものなんて気にならない、そんなお気に入りのシャツのようなフィットする暮らしを作るお手伝いができたら」というメッセージのように自分にフィットした環境・時間をつくり、その時間をなるべく1日24hの中で多くの時間取れるようにする、そのことこそが大切なのだろうと思う。考え方として自分を納得させるのではなく、身体的に感覚としてフィットする感覚・満たされた感覚を持つこと、それを探し続けることが大切なように思う。

そのために、自分が今していて楽しいこと・満たされる・幸せなことと、したくないこと・していて楽しくないこと・嫌な気持ちになることが多いことを分け、それらを自分のフィットする、気持ちの良い距離感へ置き換える。足らないと思うものを嘆くのではなく、自分の人生としてもっとハッピーに生きれる時間を無理やり増やす。

わたしで言えば、好きな本やヨガをもっともっと暮らしの中に増やし、SNSを遠ざける。ほかにも、仕事が満たされていないと思うのであれば、自分にとって満たされる仕事とは何か考え、それに近づくように行動したり、今までの自分のことを知らないコミュニティがほしければ探す。逆に、結婚とか、人の縁とかは自分でどうにかすることができない範囲が大きいから、それは自分に適度な距離へ置き換える。

自分で取り入れられる楽しいこと・満たされることは自ら増やし、変えられない楽しくないことは少し遠ざける。変えられないものを足りないと嘆くのではなく、変えられるもので自分の時間を設計する意識が大切なような気がする。

そんなことを言っても、SNSはまだまだ気になるけれど、少しずつ意識して、虚無感とおさらばしたいなあ、と思う、雨降る冬の始まりを感じる土曜日でした。

今日は虚しさを感じた時もあったけど、友人二人から当日夕方ご飯のお誘いがあったから結果的にハッピーでした。予定が入っていなすぎることに嘆いたときもあったけれど、ふらっと当日に誘える人枠もいいかもなあ。



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