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名付ける必要が出てきたときまで

先日、あるドラマについて書かれたWeb記事を読んだとき、少しドキッとして、思わず画面を閉じた。

そのドラマは、現時点ではマジョリティではないある愛のかたちを描いたもので、その記事の記述を読む限り、登場人物のある特性が自分と重なった。自分はここに分類されるのかもしれないーーそう思うと、自分と同じような他者がいるという安心感を抱いたと同時に、「かつてよく見た“一般的“な幸せになれないのかもしれない」という考えもよぎり、それをすぐに受け入れきれることができず、少し苦しさを覚えた。

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これはわたしの感覚的な話でしかないが、ここ数年、「それぞれの生き方」の名称(という言い方が正しいのかもわからないが……)を耳にする機会が多くなったように感じている。たとえば、繊細な気質を持った方を指す“HSP”、それぞれの愛のかたちである“事実婚”や“同性婚”、そして最近耳にした他者に恋愛的/性的に惹かれない“アロマンティック/アセクシャル”……わたしがまだまだ無知ゆえに認識のずれがあるかもしれないが、ここ数年でそれら名称とともに多様な生き方があると知ることができた。

実際、それら名称に関する記述を読み、自分にもかなり当てはまっているだろうなと思うものがいくつかある。何となく当時の狭いコミュニティで「マジョリティ」に入れずもやもやしていていたことに対して、名称を付けられていることを知り、「ああ、わたしはこういうことなのかな…」「こう思うのはわたしだけではないんだ……」と確かに心が軽くなった。

しかし同時に、わたしはまだ、名称とともに「こういう気質があるんです」などと他人に言えるくらい、100%自認できている感覚もない。自分と重なっているところはあるけれど、「わたし=その名称」だと言い切るには、少しまだ怖れのような感情があったりする。

きっと心が軽くなったのは、「もやもやしているのは自分ひとりじゃない」とどこか生きることを認めてもらえたような感覚があったからで、でも同時に感じる怖れは、何となく「可変的な未来の自分がなくなってしまうのではないか」という感覚からだと思う。

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ずっと「周りに合わせること=正義」だと思っていたわたしが、数年前から文章を読んだり書いたりすると生きやすくなるのだと知って、そこからなんとなく自分の第二フェーズに入った感覚がある。もちろん人間としての根本の部分は変わっていないだろうけれど、自分の輪郭みたいなものが少しずつ認識でき、自分と他者を混ぜて考えにくくなったり、ひとりの時間を少しずつ楽しめるようになったりした。第一フェーズの頃と比べて、自分が知っている自分の幅が確実に増え、そしてわたしはまだまだ自分の知らない部分がたくさんあるのだと思っている。

果たして上記でいう気質や愛のかたちが昔から変わらない「根本」の部分なのかはわからないけれど、わたしはまだ自分の知らないことがたくさんあると思うから、何となくここで短い名称で決めつけてしまうことは怖いのだろうな、と思う。言語化されることによって何度も救われてきたけれど、まだ名付けずに宙に浮かべておきたいものもあることも知った。

自分と重なるかもなと思う名称を無理に当てはめるのではなく、わたしはわたしなりに自分が心地よい生き方を選ぶ。もし、それが名称に符合したときにはじめて、わたしはそれを使う。決して言葉がはじまりではなく、自分がはじまりで、わたしはまだその余剰を楽しんでいたいんだと思う。

耳にした言葉がすぐに自分の言葉になることはない。ゆっくりゆっくり噛み砕いて、名付ける必要が出てきたときに使う。そう、言葉を味わっていきたい。

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