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縁をなぞる。

誕生日、毎年メッセージをくれる人がいる。

5年前、留学先で出会った彼。アメリカ人で、医者を目指していた傍ら、日本文化が好きで日本語も勉強をしていた。

半年弱滞在したアメリカの留学先には、日本語を勉強したい現地大学生と私のような日本人留学生が交流できる20名ほどのサークルがあった。そこで彼と出会った。

いつも笑顔で、明るくて、心の底から優しかった。医学を勉強する彼はきっと日々とても忙しかっただろうに、食堂で会うと私たちの拙い英語に最後まで耳を傾けてくれた。週末も予定が合えば、私たち日本人をどこかへ連れて行ってくれたりした。

しかし、決して私と彼は、二人でどこか出かけたりする仲にはならず、二人のチャットもせず、いつも少なくとも4名以上で一緒に遊ぶ間柄だった。決して濃くない、物理的距離が離れれば自然と疎遠になる友達。そんな間柄だと思っていた。

そんな彼から、帰国後も毎年facebookを通じて誕生日祝いのメッセージをもらう。もう5年連続。毎年「お誕生日おめでとう!」と日本語でメッセージをくれる。

それ以外では、SNSで繋がっているものの一度も連絡を取らない。誕生日だけ。彼の中で誕生日の通知があった人には必ず送るのだというポリシーがあるのかはわからない。けれど、そのたった10文字のメッセージが、彼の中でわたしはまだ小さくとも生きているんだ、そう思わせてくれて、とても嬉しかった。

・・・

年々コミュニティが変わると、付き合う人も変わる。学生時代、毎日のように笑い合っていた仲の友人とも、気付けば数年会わず、連絡も取らずなんてことザラにある。

そんな友人らの誕生日が来るたびに、「おめでとう」の一言を送ろうか?毎年悩む。疎遠すぎて、送っても返信の義務感を感じさせて重くなってしまうのではないだろうか?そう考えてしまい結局見送ることが多い。

でも、彼からの連絡が来る度に、どんなに疎遠の相手からでも連絡が来れば嬉しいなぁと思う。相手の中で、自分が生きていたんだと思えると、そこにも少し自分の存在意義や居場所がある気がして、ちょっと生きることに自信が持てる。普段は意識してなかった場所に道があるようで、ふわっとそれが浮き上がる。

人との関係について、わたしはまだまだ加減が難しい。重くても嫌われてしまう気がするし、でも軽いとわかるとどこか寂しい。同じくらいの強さで縁を引っ張り続けるのは不可能だとわかっていながら、それを期待してしまう自分もいる。

それでも、やっぱり誕生日って大切だから、おめでとうの一言くらい臆せず、知ってるみんなに言ってもバチは当たらないかな、とも思う。

縁を何がなんでも切らせないように無理に引っ張ることはなんだか強すぎる気がして気が引けてしまうけど、せっかくそこにある縁を毎年どこかのタイミングで一度なぞる、それくらいの事はしていいのかもしれない。

彼には本当に毎年、感謝が募る。いつか感謝となんで毎年送ってくれるのか聞きにいきたいな。

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