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わかりあえなさを繋ぐ、新たな可能性

「わかりあえなさ」はここ数年ずっと噛み砕けずに抱えていたわたしのテーマだった。

3年前、学生インターンをしていた会社で、直近の上司にわたしの状況をわかってもらえておらずに叱られたことがあった。4ヶ月ほど平日はほぼ毎日数分おきにラインやメール、電話、口頭で仕事のことで終日連絡を取り合っていた関係であったのにも関わらず、自分のその時の業務状況からかけ離れたことを言われ、「なんでこんなにわかってもらえないのだろう」と絶望を味わったことを覚えている。

少し時間が経って思えば、上司はわたしの見えない範囲で色々な仕事を抱えていたのだろうし、わたしも自らわかってもらえるように発信していなかったし、わたし自身も上司のことを10%もわかっていなかったと思うが、ほぼ毎日、数分おきに連絡を取り合ってもわかりあえないこともあるのだな、とだれかと仕事をする難しさを感じた。

同様のことが、社会人になって違う会社に入ってからもあった。報われなさというのだろうか、そんなものは社会人であれば誰でも体験しているのかもしれないが、なんだか聞いたことに答えてもらえない感じとか、こちらが気を効かせたつもりが真逆の結果になったりとか、そういうすれ違いを多く感じるようになった。

特に、仕事をする相手はある程度選べない中で、且つ業務の連絡を多くし、感情のやり取りが少ない中では、このような「わかりあえなさ」は仕方のないものなのかな、と少し孤独を感じながらそう一抹の諦念をも抱いていた。

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そんな今日は、東京で開催されている企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」に訪れた。

そこでは多言語、触覚、手話、ジェスチャー、文字、グラレコなど人間同士でもいろんなわかりあえなさをつなぐ様々な翻訳の可能性が示されていた。加えて、人と動物、植物など、前提としてわかりあえなそうな関係とを繋ぐ可能性まで示されていて、新年1発目の展示として、非常に心が洗われる思いでその空間に居させてもらった。

特に印象に残っている展示として、『翻訳できない世界のことば』とベストセラーになっている書籍から、いくつかの世界のことばがパネルにて展示されていた。たとえば、「涙ぐむような物語にふれたとき、感動して、胸が熱くなる」という意味のイタリア語や、「心の中になんとなくずっと持ち続けている、存在しないものへの渇望や、または愛し失った人やものへの郷愁」を意味するポルトガル語・ガリシア語の単語など、日本語には、上手く翻訳できることばが展示されていた。たしかにその感情は抱いたことがあり、なんだか日本語以外の世界の言葉に、その感情が単語としてあることに、決してわたしの感情は日本語ありきでなくていいのだと、なんだか救われたような気がした。

言葉は、今までわたしの中で「型にはまったもの」というイメージが強かった。テストのために覚える形容詞、ことわざ、四字熟語、漢字。それは、テストで正解か不正解かを見定められる、一定の型にはまったものだった。

そしてその型を頭へインストールして、感情をその型を通して認知し喋る、そんな風に過ごすことが多かった。

だけれど、今回の展示を通して、自分の感情、抱える思い、考えは決して日本語の文字、言葉だけで表しうるものではなく、それぞれに合わせた伝え方や共有の仕方・可能性があるのだと、感情や思考と表現の狭間の道筋を司る脳のある部分がぐぐぐと広がったような気がした。

明日から、2021年の仕事が始まる。わかりあえないはずの他者同士が、わかりあっている前提で仕事を進めなければいけない。だけれど、わたしたちはわかりあえない。どうしたらより、わかりあえない中で繋がれるコミュニケーションができるのか、探っていく1年にしたいと思う。

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