TRPGについて話し合うことって何の意味があるんだろう?

 僕はよく、TwitterでTRPG、正確にはCoCについて考えたことを書いている。日々のプレイの中で感じたこと、あるいはいわゆる「学級会」と呼ばれる議題について、自分の意見を示している。

 僕はできるだけ根拠に即し、丁寧に書こうと思っているのだけれども、誰もがそういう形で意見を言うわけではない。自分の立場がどこにあるかだけを表明する意見も多い。もちろん、Twitterの140字で議論したり意見を示したりなんてことはできないという主張も、至極まっとうだと思う(とはいえ思想家でドゥルーズ研究家の千葉雅也はTwitterを思考ツールとして用いているようなのだけれども)。

 そうした議論をしていると、必ず目にすることになるのは、「議論なんて意味がない」「身内の遊びに口を出すな」という意見だ。たぶん、これを読んでいるみんなも一度ならず見たことがあると思うし、僕の知り合いでもこう主張している人がいると思う。

 Twitterでの対立する議論の中には何でも、あるふたつの意見の対立だけではなく、議論それ自体の無意味を問う主張も現れてくる。哲学史で言う絶対主義(真理主義)と相対主義(ニヒリズム)との対立のような構造を持っている。「真なる道徳とはいったい何なのか」という議論の横には「そもそも一つの真なる道徳なんて存在しない」という意見もある。

 実はこの対立はより深刻だ。というのも、もはやそこでは議論が無価値になる。対立が解消されたり和解する余地は一切ないからだ。むしろ、その必要性こそが無化されるというところにニヒリストの主張が存在していると言っていい。

 そして矛盾するようだが、ニヒリストである人々は絶対主義者よりもよほど、意見を変える余地がない。それは、議論なんて意味がないという思想に基づいた先験的判断(経験する前から答えが決まっている判断)によって支えられている。要するに議論には意味がないのだという偏見でもって議論を眺めるから、議論を眺めても意見は変わらないのだ。だからこそ、既に持っている意見は変わらずに保持され続ける。答えがないということを、自分で答えを決めてもいいということに読み替えている。

 まずは議論の意義を検討しないことには、話し合うことに何の意味もない。議論や話し合いをすべきだと考える人は、まずその点から考え、主張することをはじめなくてはならない。そしてこの検討が終わった時に気づくだろう。僕らの仕事は敵を倒すことではなく、仲間を増やすことなのだと。

 相対主義を相手にする議論において重要なのは、許容できる限り相対主義の考え方で考えることだ。相手の立場に立って、その中で相手が可能な別の答えを導くことだ。そして、これこそが「批判」のやり方である。相手の立場に立てない批判というのは全くもって間違っている。言い換えれば、相手の不満を解消するところに批判の真価があるということだ。そもそも不満を持っていない相手に批判は不可能である。哲学をする人々が往々にして人生に不満足であるのは、そういう理由なのだ。

 では、ニヒリストが議論することの無意味を語るとき、何に不満があるのだろうか。端的に言ってまさに議論が不毛であることである。子どもが勉強に意味を見出さなければやらないのと同じように、ニヒリストもまた議論の意義がわからなければ行わないと言っているのだ。

 ここで重要な観点であり方法は「プラグマティズム」だ。教科書でよく、「実利主義」と訳されているプラグマティズムであり、プラグマティズムにおいては「実際に有用なもの」「価値があるもの」のみが真理たりうる。だがこの「有用」や「価値」を経済的な意味で把握してはいけない。プラグマティズムの語源をたどれば、正確な日本語訳は「実践主義」や「行為主義」の方に近く、その真理が実際に示されたり、あるいは現実生活に影響を与えるような概念がプラグマティズムにおいて「真理」とされるのである。逆に言えば、主張はその「実用性」を問われ続けることになる。「議論には意味がない」という主張を検討する枠組みとして適切であることが伺えるだろう。

 では改めて、議論の意義とは何だろうか。それはまさしく意見が多様であるというのを「実際に」知るために不可欠なのだ。我々は人それぞれ意見が違うことを見出すが、同時に実は根底で同じことを考えていたという場面に遭遇する。「正義が対立する」パターンではこれがよく見られるだろう。目指している方向は同じなのに、なぜか方法や立場で対立してしまうとき、その「同じ」が対立を解消する余地を与えるかもしれないのにも関わらず対話を避けてしまうとするならば、あらゆる創作物に見られるのと同じ悲劇が繰り返されてしまう。必ずしも意見がバラバラだとは限らないのに、初めから意見は多様だから意見交換はしない、人の話は聞かないと拒絶するならば、その人のもっている信念は偏見以外のなんであろうか。「偏見や差別は正しいことだ」と主張でもしない限りその立場の根拠はどこにも存在しないだろう。

 無論、どこまでも「同じ」に回収できない対立は残り続けるだろう。出自や経験から生じる信念や物事の優先順位、そうしたものによって意見は最終的に対立する。だがその完全に解消不可能な対立に至る前に議論をやめれば、どうして「意見は多様だ」などということが「実際に」言えるのだろうか。多様さを根拠に据えて主張するのであれば、その多様さの回収不可能性にたどり着く必要がある。僕は人々の意見が多様だと思う。だからそのために、議論をしなければならないのだと思う。

 さらに検討を深めていこう。プラグマティズムを方法としてこの議論を進めていく意義はもう一つある。すなわち「「人々の意見は多様だ」と主張する意味は何か?」という問いの生成である。人々の意見が多様であるという真理は、いったいどんな有用性を導くのだろうか?

 それはコミュニティに対する個人の尊重である。人々の意見が多様であり、どれも答えであるとは言えない状況では、その人々を統一する一つの真理が主張し得ない。だから人々は自分の信念を大切にし、またコミュニティからも大切にされるべきであると主張することができる。

 おそらく、僕の批判する相対主義者たちもまた、こうした考えには同意するだろう。だが、議論が大切なのはまさしくその個人が救済されるためなのであって、そこまで同意してもらうことを僕は目指している。

 さて、ここで議論は改めて冒頭へ、つまりTRPGの話へと戻っていく。TRPGのあらゆる形式は社会的行為である。すなわち、私がいてあなたがいるというコミュニケーションで成立している。(※ゲームブック式のソロプレイは、ここではいったん議論から省く。)そしてそれが複数人集まってコミュニティを形成している。そう、TRPGはコミュニティ、つまり人と人との集まりの中で行われていると言っていい。

 コミュニティの重要な成立条件のひとつとして、特定個人の自分勝手が諫められるというものがある。許容範囲であれば許されるが、度を過ぎれば最悪の場合、排除される。よってコミュニティには成文不文関わらず規律がある。規律は必ずしも適用されるわけではないが、コミュニティにおける利益の個人への偏重を留める性質を持っている。

 だが重要なのは、コミュニティにおけるその特有の規律は、コミュニティ内のパワーバランスに影響を受けるということである。このパワーバランスとは、必ずしも有力な一者によって形成されるわけではない。男が多ければ男の感性に傾き、体育会系が多ければ体育会系の雰囲気に近づいてゆく。このバランスの偏重は、どんなコミュニティでもおそらく避けられはしない。

 だから、コミュニティのあるところには絶対的に摩擦がある。うまくいくコミュニティとは、その摩擦に何とか折り合いをつけているということである。個人は所属しているコミュニティに完全には満足していない。

 というより、完全に満足している方が異常なのだ。人は多様だとするならば、その全員が満足するコミュニティはあり得ないし、誰かにとって完全に満足するコミュニティであるならば、他の人にとってどこか多かれ少なかれ不満が無ければおかしい。そう想定しなければ、「人それぞれ」などということは言えるはずがない。コミュニティに対して少しは不満がある方が健全なのだ。その不満が許容範囲で薄く均等に分有されているのであれば、きっとその人々はその不満以上の満足をコミュニティから獲得できるのである。

 重要なのは、コミュニティは同質性の空間ではないということである。少なからず摩擦があり、そしてそれを組織するのは、多様なる個人である。この世界に全く同質なる「身内」などというものは存在しない。そう考えると、「身内の遊びに口を出すな」という言葉に潜む抑圧性がにじみ出てこないだろうか。身内というのを同質性に満ちた関係と捉え、その中にあるかもしれない不満の声に耳を貸さずに圧殺するように思えないだろうか。そのg人が「身内」と呼ぶその人もまたあなたと違う「個人」であり、別の意見を持っている。その人の不満を解消する言葉が、正に話し合いの中に見つかるかもしれないという可能性を打ち消すことは、あなたの望むことなのだろうか。

 話し合い、議論とは、まさに意見の多様性が発現し、それが証明される場である。そこでは多様な意見と、その異同が明らかとなる。日々描いていた言語化不可能な「もやもや」はそこで形を持ってその人の思想を形成するかもしれない。「身内」という言葉は、何とも仲間思いの言葉で優しさにあふれているように見えて、実は「個人」をコミュニティの他者に押し付けているだけかもしれない。ある人は、TRPGについての多様な議論に触れる中で、自分が聞いたことも無い信念に触れ、今まで楽しめなかったゲームに対してワクワクを覚えるかもしれない。こんな楽しみ方ができるゲームなのだと、自分とゲームの関係を変容させる契機になるかもしれない。そしてその関係性の変容は、まさしく新しいコミュニティとのつながりという形で、自分と他者の関係性を変容させていくのである。

 僕は確かに、身内の中の遊びでは違反や不道徳が許容されると思う。それがゲゼルシャフトとゲマインシャフト、つまりあるゲームシステムを目的に集まった社会(ゲゼルシャフト)と、地縁・血縁や友情関係に代表される共同体(ゲマインシャフト)の違いだと思う。後者においては、楽しませる努力だとか、綿密なシナリオの作りこみだとか、ルールブック通りのプレイだとか、そういうものを適用せよ/べきだという命法や当為が適用されなくてもかまわない。

 だがそういうことを主張するとき、2つのことに気を付けなければならない。ひとつは自分がゲマインシャフトだと思っている組織がゲゼルシャフトかもしれないということだ。これはよく、会社でハラスメントを行う上司や年長者が混同しがちである。「身内」という言葉はゲマインシャフトを連想させやすいが、必ずしもそうではないし、その共通認識がとれていると前提にするのは間違いである。もうひとつは共同体においてもまた、必ずしも意見は一致していないということである。ゲマインシャフトはあくまで偶然的な組織であり、その接続を保障する紐帯は恣意的なものである。「親しき中にも礼儀あり」とはまさしくゲマインシャフトが張子の虎でしかないということを示している。だからこそ「身内」においてはルールや当為よりも、まさにその場にいるその人を大切にしなければならない。そして人はみな多様な意見を持っているのであるならば、「身内」の仲間のためにこそ、多様な意見を見聞きして、その「身内」のための多様な配慮の余地を探るべきなのである。

 繰り返すが、TRPGとはコミュニティで行われる、人と人とのコミュニケーションである。まさしくその人のコミュニケーションの形がTRPGに色濃く反映することになる。コミュニケーションの懐の広い人は、多様なコミュニケーションの手法によって人々を楽しませることだろう。「身内」だけとしかコミュニケーションができない人は、もちろん身内受けしかしない言葉でTRPGに挑むことになる。身内の中でやるには問題ないだろうが、TRPGを行うという目的のもとに集結した利益的組織、ゲゼルシャフトにおいてそれは通用しない。議論を放棄するという態度は、まさしく議論的にコミュニケーションするという資質の欠落へと結びつく。議論しないというのは、人々の意見の多様性の実際の多様に目を向けないということである。目の前にいる、仲のいい友人と自分との真なる違いに気づかないし、理解しようともしないとするならば、そんな「身内」のことを、どうしてその人が代弁できるのであろうか。「身内に口を出すな」というとき、まさにその言葉によって救われる「身内」の可能性をどうして閉ざせるのだろうか。

 TRPGについて考えるというのは、コミュニティとコミュニケーションについて考えることと同じだ。コミュニティとコミュニケーションについて考えるのであれば、当然そのコミュニティにおける規則とコミュニケーションの相手である他者についても考えを巡らせなければならない。そう、TRPGについて考えるというのは、他者について考えることでもある。他者とは、まさしく意見を異にし、自身と同化されない存在だ。意見の多様性がこの世界の事実であるとするならば、この世界は他者であふれているし、あなたの隣にいる人々も他者かもしれない。だからTRPGについて考えるということは、あなたの隣にいる人が自分と違う存在であるということを考えることと同じなのだ。だから僕たちは、TRPGについて考え、それを言葉にして、お互いに意見を出してそれを検討する。それによって、一緒にそのゲームをする人が自分と違う存在であるということの事実性を確認できるのである。もしそのプロセスを経ずに「人の遊び方に口出しするな」というのであれば、そこにはその言葉のもつ「リアリティ」が足りないし、「身内」に対する「ケア」も欠いていると言わざるを得ない。

 TRPGについて議論することの意味とは、「身内」に回収されてしまっている同質化された「個人」を救い上げ、新たなコミュニティへと結びつけることだ。そこで、多様な意見の交換と検討としての議論を支えてくれる仲間は増えていくのだと思う。

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