〈目星〉

「机の引き出しを開けます。奥まで手を突っ込んで、引き出しの上側に何かついていないか確認し、引き出しの敷板が外れないか確認してみます」

「なるほど、そうしたら〈目星〉は不要です。引き出しの上面にガムテープでUSBメモリが張り付けられていました。あなたはUSBメモリを獲得します」

 CoCをプレイしているときの何気ないやりとり。僕たちはこうしたやりとりを、当然のように感じている。むしろこれはしばしば〈目星〉ロールを回避する「良いプレイ」として称賛される。

 だが僕はしばしばこうしたプレイが疑問に感じてならない。というのも、それは「ロールプレイ」していないのではないかと思うからだ。

 ロールプレイとはその(プレイヤー)キャラクターが行為したものとして行為することに他ならない。そのキャラクターには経歴があり、人生の中である経験をし、ある経験をしなかった存在である。つまり探索者はある内容についてプレイヤーよりよく知り、ある内容について知らない存在である。

 例えば、以下のようなプレイを考えて見てほしい。人生で法律について一切学んだことのない人物がこのように発言したとしよう。

「この土地は「文教地区」に指定されています。つまり風営法の適用を受ける店はありません。つまりこの地域にはキャバクラがあるか調べる必要はないのです。他の地域を調べましょう」

 さて、これは「良いロールプレイ」だろうか。例えば宅建業法なんかの勉強をしたとすれば常識に当たるないようだろう。しかし義務教育の教科書からは逸脱した、〈法律〉の知識だ。プレイヤーが法律を学んでいたためにこの知識を持っていたが、法律を学んだことのない探索者がこれを突然提案した時、それを「ロールプレイ」しているとは言えるだろうか。


プレイとロールプレイ

 もはやルールブックから引用するまでもなく、「クトゥルフ神話TRPG」とは怪異に巻き込まれた「探索者」を演じる「ロールプレイングゲーム」である。探索者はプレイヤーと別人格のトークンとしてゲームの中に参画し、プレイヤーは探索者を通じることでのみゲームへと影響を与えることが可能である。探索者の無いクトゥルフ神話TRPGはルール上、存在しない。

 ロールプレイとは、クトゥルフ神話TRPGというゲームをプレイするためのルールともいえる。我々はクトゥルフ神話TRPGをプレイしているが、その方法として「ロールプレイ」を行っている。これは将棋をプレイするとき、その方法が「コマを移動する」ことであり、コマを動かさないプレイの方法はないということである。

(※ここでいう「プレイ」は「楽しむ」という意味と切り離されている。ここにおいて将棋を見て楽しむことを「将棋をプレイする」とは言わない。)

 またこのロールプレイとは演技のことではない。ルールブックにあるように、ロールプレイとはその人物の行動を描写することである。階段を登る、村人に話を聞く、髭を撫でながら思案して何かをひらめく、こうした行為全般について、我々はそのキャラクターの行動を描写してゲーム上で動かす。

 つまりプレイとロールプレイは違う。そしてクトゥルフ神話TRPGでゲームに実際に影響を与えるのは、ロールプレイということだ。


ロールプレイとダイスロール

 『新クトゥルフ神話TRPGルールブック』によると、キーパーの仕事はその探索者の描写のどこまでを描写通りに進め、どこからをダイスロールで判定するかの判断であるとのことだ。つまり、「ドアを蹴破って部屋に入り、そこにいる守衛を無力化する」とプレイヤーがロールプレイしたとすれば、キーパーはその内どこまでがそのまま描写され、どこからが描写されないかを判定する。この全てをそのまま描写通りに通してもいいし、一方でそれぞれの行動にロールを要求してもいい。本当に細かくダイスロールを要求するのであれば、「ドアを蹴破って」のところに〈キック〉を、「そこにいる守衛」を即座に見つけるために〈目星〉か〈DEX〉を、そして「無力化」するために〈近接戦闘〉をロールさせる。

 もちろん後者はあまりにも冗長だ。ルールブックの例によると、こういうロールプレイの際に要求すべきダイスロールは敵を無力化できたか否かだけでいい。つまり〈近接戦闘〉ロールに成功すれば敵を拘束でき、失敗すれば戦闘に入る、あるいは騒ぎになるという処理をするということだ。ルールブックではそれは盛り上がりに合わせて判断するように求められる。

 ダイスロールの基準は『クトゥルフ神話TRPG』(旧版=6版)によると急を要する行動や集中力を伴う行動に対して要求されるという。つまりダイスロールを求めるのは、困難な状況または緊急の状況において行われる。誰かに追われている場面で、ドアを蹴破ってそのまま進むのであればもしかしたらダイスロールは必要かもしれないが、息を整えてドアをこじ開けてゆくのであれば不要だろう、というような具合だ。

 重要なのはその行動の困難さと緊急性だ。ロールプレイにおけるダイスロールとは、その人物の状況との兼ね合いを考えずには議論できない。


行動の困難さ

 つまりキーパーは、どの行動がどのくらい困難なのか、深慮しなければならない。

 法律の専門家にとって民法709条が不法行為であるとすぐに答えるのは恐らく容易な行動だろう。そして不法行為の構成要件が「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」ことであるという前提からある対立について議論を始めることは造作もないはずだ。だが、すべての人が同じような前提で議論を始めることができるだろうか。それができる人々の割合は、法律の専門家とそれ以外とで同じだろうか。

 それはキャラクターだけの話ではない。現実の問題として、プレイする人間がどうであるかも考えなければならない。つまり、キーパーが実際に法律家であるためにこの知識を当然のものと見るかもしれなくても、キーパーが変わればそうとは見ないかもしれない。そういう知識を自明のものとして扱うかどうか、そこを考えなくてはならない。

 つまりどんなキーパーでも、ある行為や行動が容易かどうか、できるだけフラットに見て、必要であればロールを求めるということが求められている。

 例えば仕事で法律に携わる探索者がパソコンや六法全書を手にしているときに不法行為について全く見当もつかないなんて馬鹿なことはないだろう。そこで〈法律〉ロールや〈図書館〉ロールを求めるのはおかしな話だ。だが、学生がレポートを書くために不法行為について良いレポートが書けるかどうかという時には〈法律〉や〈図書館〉のロールが必要だろうし、ナイフを振り回す犯人を返り討ちにして殺してしまった時、自分の行動を正当防衛として正しく主張するためには〈法律〉が必要ではないだろうか。

 ダイスロールが必要かどうか、その判断にはキーパーもまたその人物になる必要があるということだ。「自分がもし法律について専門的に学んだことが無かったら、その知識を知っているだろうか?」という問いと共に、それでも知っているかもしれない可能性を示したとき、ダイスロールがその可能性を検証してくれる。

「その知識を持っているか、〈法律〉で判定しましょう。……成功! あなたはテレビで見たか、はたまた公民の教師が余談として話していたからか、その知識を知っていたようです。」

 

改めて〈目星〉問題

 では、今一度冒頭の状況に戻ってみよう。何か大切な情報を探すために机の中をくまなく探すというロールプレイを今一度、上のようにして考えてみよう。

 〈目星〉とはルールブックにあるように、人が気づきにくいとっさの何かや目立たない何か、隠された何かに気づく技術である。いうなれば、散らかった部屋の中で目当てのものを見つける能力だ。

 考えてみよう。失くしものを探すとき、誰もが同じように失くしものを見つけられるだろうか。そうではない。ある人は自分の行動を思い出し、ある人は1カ所ずつ丁寧に片づけていき、そして確実にそれを見つける。一方、ある人は鍵を探していて、確かに目の中に入ったはずなのにそれを認識できず、そこにはないと思い込んで次の場所を探してしまう。

 〈目星〉とはこういう技能だ。目の中に入ったものを自分の必要なものと認識する能力、あるいは空間を丁寧に把握する能力だ。鈍感な人は、どんなに重要なものが目に入っていても、その事実に気づけない。世界をぼんやりとした区切りで見ていて、そこにある些細な、しかし重要なことに気づけないのだ。

 冒頭の場面もまた、そうしたポイントである。机の中をしっかりとくまなく漁ったり、そこにあるボタンや二重底に気づくかどうかは、実は誰もができることではなく、一種のスキルなのだ。世界をよく見つめている人には気づけるが、そうでない人には気づけない。「机の引き出しを開けます。奥まで手を突っ込んで、引き出しの上側に何かついていないか確認し、引き出しの敷板が外れないか確認してみます」というロールプレイは「ドアを蹴破って部屋に入り、そこにいる守衛を無力化する」というロールプレイと同様で、そこまでめざとく世界に気を配るような人物かどうか、ロールが必要なのだ。これは〈目星〉を要求しなければならないような行為なのである。

 もちろん、机の上に堂々と置かれた日記に〈目星〉が必要だと言いたいわけではない。なぜならば、それはロールを振るまでもなくできることだからだ。


〈目星〉問題の向こう側

 〈交渉技能〉をロールプレイという名のプレイヤーの言葉選びで行わせたり、リアル知識に基づいて行為するというのも、以上と同様の理由でロールプレイには含まれず、ゲーム上の処理にされるべきではないものである。我々は言葉だけで交渉事をしているわけではなく、雰囲気や相手の感じ方、タイミングといった様々な要因の影響からその成否が決定している。ある言葉を選べば自動的に成功するような交渉はそもそも交渉ではなく、そもそもそれは上で述べた通り、ロールの必要がない、誰でもできる事柄に入る。それについてロールを要求すること自体がそもそも不適切なのだ。

 だが、実際のところ人は全て論理だけで動いているわけではなく、特定のワードを言えばその通りに動くものではない。TRPGのゲーム臭さを否定していたのはまさしく「ロールプレイ重視」という言葉を使っていた人々だったはずだ。人々をだましたり、その気にさせたり、信用させたりというのは、言葉の示す内容ではなく、所作や声のトーン、適切な言葉遣いや情報を出すタイミング、様々な条件に由来する。〈交渉技能〉の高低とは、まさしくそうした言動全体を示している。根拠のない言葉を信じさせる能力としての〈言いくるめ〉や社会的なステータスやその言葉の重みを示す〈信用〉は、言葉それ自体ではなく言葉に気持ちを乗せるための能力である。これを持たない人物の言葉は、どんなに熱い語り口であったとしても、目が泳いでいたり、どこか借り物であったり、突飛で信じられなかったり、あるいは声が生理的に受け付けないという具合で受け入れられないのだ。それは我々が生きるこの世界のことをイメージすれば、容易に想像できるのではないだろうか。

 こうした、すべての決定をロールで決めるようなプレイを面白くないというプレイヤーは一定数いる。熱いロールプレイにはちゃんと答えるというプレイが称揚される文化もある。筆者もそういうロールプレイは大好きだ。

 だが、こういう制約においてこそロールプレイが重視される。〈言いくるめ〉に長けた探索者が根拠のない言葉で相手を説き伏せるからこそのロールプレイだ。〈言いくるめ〉に長けた人物が常に正しく、真実のみを語って相手に語り掛けていたならば、それはロールプレイなのだろうか。技能でロールをさせることを徹底するというのは、ある意味で「その人らしさ」を表現させるためのキーパーリングなのではないだろうか。逆に、そうした人物だからこそ、ちょっとした交渉事程度、あるいは一つ言葉をかけてやればコロッと信じてしまうような状況において、あるロールプレイをダイスロールの不要な容易なこととして処理するのが打倒になるのではないだろうか。

「机の引き出しを開けます。奥まで手を突っ込んで、引き出しの上側に何かついていないか確認し、引き出しの敷板が外れないか確認してみます」

 これをするのは、探し物ができる人物だ。誰もが等しく調べ物で隅々まで調べるわけではない。

 だが、この発言をプレイヤーができるのはなぜだろう。プレイヤーはなぜこういう探索によって何か情報を獲得できるという確信を持っているのだろう。

 クトゥルフ神話TRPGをたくさんプレイし、情報がそうやって隠されていることを知っているからだ。これは、プレイヤーはクトゥルフ神話TRPGで情報を探すスキルを持っているということなのだ。


「探索者は推理小説が好きで、こういう引き出しは奥まで手を突っ込んで、引き出しの上側に何かついていないか確認し、引き出しの敷板が外れないか確認するべきだと考え、実行します」

「よろしい、キミの探索者が〈文学〉技能を持っているね。同様の仕掛けを見たことがあるか判定してみようか」

「探索者は心理学者です。人が重要な情報をどこに隠すか、わかるのではないでしょうか」

「では君が大切なものを隠す傾向についてどれくらい理解しているか、〈心理学〉で判定してみよう」

「俺は母ちゃんに見つからないようにエロ本を隠す天才だ。だからたいていの隠し場所には心当たりがあるぜ!」

「なるほど! それじゃあ君の隠し場所知識が役に立つか〈隠す〉で判定してみよう」

 今一度ダイスロールに戻る時、探索者は探索者としての人格を獲得するのではないだろうか。

 

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